押井守監督作品、イノセンスを見てきました。
公開初日の第1回上映を見られる理由 §
今回、公開初日の第1回上映に見に行くという無謀な快挙を達成してしまいました。こういうのは、本来なら若さが必要なことだと思いますが、今回は若さ抜きで実現することができました。
具体的にどういう状況だったのかというと。
まず、舞台挨拶があるような劇場や、新宿渋谷と言った人がドッと集まりそうな場所で公開初日に見ようと言うのは、あまりに無謀という気がしていました。それゆえに、公開初日に見る予定では全くなかったのです。この日には、他の予定も1件入っていましたし。
しかし、その予定は別の日に移動してしまい、特に時間が取れない理由は消滅していました。そういう状況で、何気なく公式サイトで上映館を調べた時に、TOHOシネマズ南大沢の名前を見つけました。これは名前が変わる前に2回ぐらい行ったことがあるシネコンですが、設備は悪くなく、インターネットで空席を調べたり予約を入れることができます。そこで調べてみると、初日のイノセンスはガラガラであることが分かりました。ここに行けばけして殺人的混雑に巻き込まれないだろう、という予測が立てることができて、もしかしたら見に行けるかも、という気持ちが起きました。しかも、オンラインでチケットを買えば、確実に席を確保できます。つまり、行ってみたら凄い人出で劇場に入れませんでした、とか、立ち見で疲れました、という事態を確実に回避できるのです。
と言うわけで、前夜に決断して、チケットをオンライン購入して席を確保しました。
あとは、早起きして電車に確実に乗るだけです。東京の地の果て南大沢であっても、朝の快速に乗れば乗車時間は正味40分ぐらいでした。遠出という感じにはなりません。
客の入りは §
イノセンスを上映したSCREEN 2は126席(ハンディキャップシート2席)というキャパですが、終わって見てみると、8割以上の席が埋まっていたように感じられました。割と注目されている感じでしょうか。
自分の席 §
チケット購入時に席の大ざっぱな場所を選べますが、前の方を選んでしまいました。最初のうちに宣伝を見ている間は、かなり前過ぎて厳しいかも、と思いましたが本編を見ているうちに慣れてしまって問題ありませんでした。
あらすじ §
愛玩用の少女型ロボットが暴走して人を殺すという事件が起き、主人公バトーと相棒のトグサは調査を行います。ヤクザと戦ったり、視覚に誤った映像を流し込まれたり、機械の身体を持ったハッカーを探して話をしたり、いろいろやった最後に、ロボットを製造する工場を調べて物的証拠を確保するしかない、と言うことになります。そして、工場のある船にバトーは乗り込み、トグサは遠隔で支援します。途中でトグサは支援できなくなりますが、その代わりに、バトーが心の中で想っている人物、かつて草薙素子であった存在が少女型ロボットの身体にダウンロードされてきて、バトーを助けます。
そして、この事件の真相とは、子供のゴースト(魂のようなものか?)を取り出して愛玩用ロボットに入れることで人気の高い愛玩ロボットを作っていたという陰謀であることが明らかになります。
なぜ、人間は自分の似姿を真似て人形を作るのか §
最近日本で開発されている人型のロボットについて、個人的に1つの不満がありました。それは、なぜ人型であるかという理由についての真剣な問いかけの不在です。もし、機能的な合理主義によってロボットを作ろうとするなら、人型にならない方が自然です。
しかし、今やアニメに留まらず、日本のロボット開発といえば、ホンダなどが競い合うようにひたすら人型のロボットの開発を進めています。そうまでして人型である理由が、あまり明瞭ではありません。というよりも、それに疑問を差し挟むという発想そのものがなく、最初から人型機械ありきで、人型機械を作っているように見えます。そして、彼らが人型であるべきだとして持ち出す理屈は、あとから取って付けたような屁理屈にしか聞こえないように思えることも、しばしばです。
そこで、この映画では、その明確化されてこなかった領域に対して、なぜ、人間は自分の似姿を真似て人形を作るのかという問いかけを発することができています。これができる人材は、アニメ業界の中でも、あまり多くないのではないかと思います。その点で、押井守という人物が傑出して優れているとも言えるし、イノセンスは私の方から相手の土俵に乗ってあげなくてもストレートに受け止められる希有な作品である、と言うことも言えるかも知れません。
その一点だけでも特筆すべきなのですが。
もう1つ、個人的に嬉しい大きな特徴があります。
身体を持たずともロマンスは実践できる? §
個人的に嬉しいのは、バトーにピンチに、素子が人形に自分の一部をダウンロードして助けに来るところです。もはや素子は素子ではなく、しかも人間ですらないというのに、何とロマンチックな展開であることか。ある意味で、仲間もなくたった一人で戦うセーラームーンのピンチに現れるタキシード仮面のように、ロマンチックだと言って良いと思います。もちろん、セーラーマーキュリーが仲間になる前、本当にセーラームーンただ一人で戦っていた時の話です。
軽く流して見ると、素子の行動は自然な流れに見えますが、冷静に考えると明らかに無駄なことをしています。人形の身体に自分の一部を入れて、身体を使ったアクションなどをしなくても、もっと効率よく事態を処理する能力があったはずです。それにも関わらず、実体としての身体を持ってバトーと並んで戦うことに、何かの価値があると思ったのでしょう。たぶん全く理屈の通らない価値。ロマンチックという言葉が似合うかも知れない価値のように感じられました。
そして、素子は、素子のやり方で事態を処理するのではなく、バトーのやり方によって事態が処理される手助けを、あえてバトーのやり方に合わせて行ったように思われます。もしかしたら、最大の見せ場、つまり素子がコンピュータにアクセスして動けない間、必死にバトーが戦って防ぐという状況すらも、バトーのヒロイックな見せ場を彼に用意するために素子があえて用意したものかもしれません。そうだとすれば、何の論理的必然性もないのにそれを行う理由は、ロマンスと呼ぶべきものかもしれません。
たとえ生身の身体を失おうとも、ロマンスはあり続ける、という考えであるとすれば、それはとてもロマンチックで好きです。
人間は機械であるか §
作中で、人間は機械であるかという問いかけがなされます。
もちろん、人間を単純な機械であると考えることは間違いです。そんなことは、押井守も百も承知でしょう。しかし、記憶の一部が外部の機械に置かれるようになったとき、人と機械の境界が曖昧になり、人間も機械の一種であると解釈する状況はあり得るという考え方は、なかなかに鋭いですね。とても面白いです。
映画「攻殻機動隊」との印象の絶大な違いはなぜ? §
個人的に、全く何か面白いのか分からない作品というものがあります。たとえば、未来警察ウラシマンなどが、これに当たります。
最初にはっきりさせておくと、まず士郎正宗の作品がこれに該当します。攻殻機動隊という作品を含め、まったく読みたいという気持ちが起きません。魅力が伝わってこないというよりも、むしろ、「私はつまらないです」というオーラを自ら発して、私と遠くに追いやろうとしているかのように思えるほどです。
もちろん、こういう感想は、全く個人的なものであって、客観性も無ければ妥当性もありません。これは、誰にでもある好き嫌いの一種でしか無く、単に人参が食べられません、ピーマンが食べられません、というのと同類でしょう。それには何の重要な意味は含まれていないと思います。
そして、映画「攻殻機動隊」にも、同じようにつまらないと感じさせるオーラを感じます。
映画「攻殻機動隊」が面白く感じられないことに、少しだけなら生命可能な理由もあります。
たとえば、この映画では、一人では進化できないので女が欲しいかのような話が出ていますが、男と女が揃わねば進化できないとすれば単性生殖する生物は進化できないということになって、筋が通りません。そういうあたりが詰め切れていない感じがあります。映画「攻殻機動隊」の世界は、押井守らによる多くの努力によって様々な重要な内容が詰め込まれたにもかかわらず、どこか子供っぽい願望の世界が残っているような感じがします。それは、私の持っているリアリティと互換性がありません。
ところが、映画「攻殻機動隊」の続編という位置づけになるイノセンスには、つまらないと感じさせるオーラを感じません。イノセンスを構築するリアリティは、私の持っているリアリティと高い互換性を持っているように感じられます。
それがなぜなのか。どういう意味があるのかは、まだ何も考えていません。ただ、そういうことを感じたということだけ書いておきます。