閑散とした喫茶店であった。
山田拓磨は、店内を見回した。
待ち合わせた相手を捜すのに手間は掛からなかった。客が少ない上に、相手が手を振って合図してきたからだ。拓磨は、その男の顔を見たが、記憶になかった。だが、向こうは拓磨の顔を知っているようだった。
拓磨は、少し警戒しながらその男の向かいの席に座った。いったい何の用なのか、拓磨には心当たりがなかった。急に電話で呼び出されたのだ。もちろん、見知らぬ相手からの呼び出しなど、受けないのが常識だ。いったい何を売りつけられるか分かったものではない。都会に出てきたばかりの田舎者ならともかく、拓磨はとっくにそれを卒業した歳だった。それでも、こうして指定の喫茶店まで出てきた理由は一つしかない。電話口で男はこう言ったのだ。
「できれば話し合いで解決したいと考えているのですよ。話がこじれて裁判沙汰になれば、お金と時間ばかり掛かって、どっちが勝っても双方大損となり兼ねませんからね」
少なくとも、拓磨の知らないところで、何かやっかいごとが起こっている、と男は主張しているらしかった。それがでっちあげではなく、もしも実在のトラブルなら、それを知らずに見過ごすのは気が進まなかった。だが、それ以上の意図はなかった。トラブルの実在と内容を確認する以上のことで、この男の相手をする気は全くなかった。
「ご足労頂きましてどうも」と男は立ち上がって、慇懃に頭を下げた。
そして、男は名刺を差し出した。
「喫煙被害者同盟代理人、黒沢弥未輔……ですか?」と拓磨は読み上げた。
「はい、その通りです」と男はうなずいた。
「時間がないので、手短にお願いします」と拓磨は言った。
「不必要に長引かせるつもりはありません。私も忙しい身でして」と男はうなずいた。
そこにウェイトレスが来たので、拓磨は「ブレンド」とだけ告げた。
「で、いったい何ですか?」と拓磨は言った。
「某月某日、あなたは、繊細な味が人気のラーメン屋、城南の五島屋に行きましたね?」
「は?」と拓磨はポカンとなった。なぜ、そんな個人的なことを、この男が知っているのだろうか。拓磨は記憶を巻き戻した。確かに、その日は、そのラーメン屋に入った。
「もう記憶がありませんかな?」
「いえ、記憶はありますが、どうしてそんな個人情報を知っているのかと思いまして」
「それは簡単です。依頼人が、あなたを目撃したのですから。別に私があなたのプライバシーを詮索したわけではありませんよ」
「依頼人とは誰ですか。あの日は、誰も知り合いとは一緒ではなかったはずですよ」
「依頼人は、あなたと知り合いではありません。ですから、名前を言っても分からないでしょう」
「それでもいいから教えて下さい」
「それは依頼人の秘密ですから教えることはできません。あなたが、どんな仕返しを考えるか分かりませんし」
「仕返し? この僕が、そんなことをするというんですか? 馬鹿馬鹿しい」
「お話ししたあとで人が変わることは珍しくありませんので」と男は残念そうに頭を振りながら言った。「危険は冒せません」
「あなたがいったい何の用でどんな人に会ってきたかは知りませんが、ずいぶん失礼な態度ですね」
「これは申し訳ありません」
「で、用件はなんでしょう?」拓磨はさっさと終わらせたいので、先をうながした。
「そのラーメン屋でラーメンを食べましたね?」
「ええ」
「食べ終わったあと、他に食べている途中のお客さん達がいるのに、煙草を取り出して吸いましたね?」
「そうですけど。それが何か?」
「つまり、自分のやったことについて、まったく無自覚であると?」
「だから、僕が何をしたって言うんですか」
「煙草を吸いましたね?」
「それが悪いことだって言うんですか? とんでもない。あの店は禁煙じゃないんですよ。灰皿だって置いてあります」
「ですが、依頼人は、あなたの煙草の煙が鼻から入って、せっかくのラーメンの繊細な味が台無しにされたんです」
「そんな下らない理由で……。煙草なんて誰でも吸ってるんだから、よくあることじゃないですか。イヤなら禁煙の店に行けばいいんです」
「あの店の味は、他の店では絶対に出せないそうですね。ラーメン通の人に確認を取りましたよ」
「だからといって、なんで文句を言われなければならないんですか。あそこは禁煙じゃないんですよ」
「はい。禁煙ではありません。ですが、あなたが他人の味覚の楽しみを奪ったということも事実です」
「奪ったって、そんなのは言いがかりだろう。あそこは吸っていい場所なんだよ」
「ラーメン屋はラーメンを食べるために存在する場所で、喫煙するための場所ではありません。主たる目的を押しのけてまで、従の目的を正当化することはできません」
拓磨は、それを聞きながら、少しヤバイ状況になってきたことを感じた。この男は、非常識だ。喫煙は大人の印だ。煙草を吸ったぐらいで、ごちゃごちゃと文句を言ったりはしないのが、大人らしい態度というものだ。もちろん、喫煙が迷惑になることもある、という意識ぐらい拓磨にもある。禁煙の場所でまで吸ってはいない。いつも、そこが禁煙ではないことを確かめてから吸っている。そこまで気をつかっていながら、文句を言われる筋合いは無いではないか。むしろ、拓磨ほども意識しないマナーの悪い奴はいくらでもいる。彼らを差し置いて、拓磨があれこれ言われる理由など思いつかない。
更に悪いのは、この男が、一見筋が通っているかのような正論を吐くことだ。もちろん、社会常識からすれば間違いなのだが、筋が通って見えることが問題なのだ。だから、この男は、自分の正義を疑ってなどいないだろう。こういう狂信者は怖い。
「分かりましたよ」と拓磨は言った。「煙草を吸ったことは謝りますよ。これで満足でしょう? これでもう帰りますから」
「とんでもない」と男は慌てて手を横に振った。「そんな口先の謝罪だけで帰す訳には行きません」
「金を寄越せと言うのですか?」
「慰謝料などで、依頼人の心は晴れはしません」
「じゃあ、煙草をやめろとでも言うのですか?」
「それも良い選択の一つですね」と男はにっこりと笑った。
その笑いが拓磨の心の奥の何かの火を付けた。何かがプチッと切れたのかも知れない。
「煙草を吸おうと吸うまいと、僕の勝手だろう」と拓磨は少し身体を乗り出しながら言った。「他人からとやかく言われる筋合いはないね。だいたい、お節介なんだよ。健康に悪いから煙草はやめましょうとか。煙草吸って早死にしたって、僕の自由だろう」
「ええ、自由ですとも。早死にしたいなら、死んで頂いて結構。私の方としては、喫煙者の健康や寿命にはまったく関心はありません。むしろ、すぐに死んでいただけば、それだけ被害者が減りますから、歓迎したいぐらいです」
「僕に死ねというのか?」
「いえ、あなたが勝手に死ぬのは自分の自由だと言うから、死にたいなら死んでくださいと言っているだけです。私から死んでくださいとお願いしているわけではありませんよ」
「じゃあ、僕が吸っても構わないわけだね?」
「とんでもない。間接喫煙という言葉をご存じですか? あなたが煙草を吸うと、周囲の人間にも影響が及ぶのです」
「そんなのは科学的な根拠がない」
「根拠はあります。個人の死因については、何が主原因なのか確定しがたい場合も多いですが、統計的に見れば間接喫煙に多大な問題があるのは科学的な事実です。それを非科学的と主張するのは煙草会社だけですよ」
「たとえそうだとしても、煙草は禁止されていないじゃないか。煙草の煙ぐらい、他の公害に比べれば、大したことはないだろう」
「禁止されていないから吸っても良いというのは、大きな勘違いというものでしょう。そういう理屈が通るなら、自動車を運転することは禁止されていないから、交通事故で他人に怪我をさせてもいい、ということになってしまいます」
「それは屁理屈だ。まっとうな大人の考えることじゃない。だいたい、マナーを守って吸っているのに、どうして文句を言われなければならないんだ。禁煙の場所では、吸いたくても我慢をしているのに、その上、どうして、こんな不愉快な言葉を浴びなければならないんだ」
「それは喫煙という行為が、もともと他人に迷惑を与えるからです。他人のいる場所で吸えば、それは迷惑行為になるのです」
「それじゃ、吸うなと言っているのと同じじゃないか」
「一人で密室にいるときは吸ってもいいですよ」
「そんな、こそこそ隠れるようにして吸っても美味くない」
「当然でしょう。もともと喫煙という行為そのものが反社会的なのですから」
「何が反社会的だ。こっちは煙草を通じて、多大なお金を政府に納めているんだ。社会貢献で褒められることこそあれ、反社会的などと言われる筋合いなど無い」
「私から見れば、喫煙者は哀れなカモですが。習慣性物質によって繰り返し購入することを習慣づけられ、逆らうこともできず、金を吸い上げられている。必ず得られる収入だから、使い方にも緊張感がない。漫然と無駄遣いして消えるお金ですよ。まったく、もったいない話です」
「苦労して払った税金の悪口を言うのか?」
「確かに、その分のお金をあなたは苦労して稼いだかもしれません。でも、それは本来払う必要のないお金なんですよ。それを払う決定権を自分で握っておらず、習慣性物質にコントロールされ、反射的に払ってしまうのが問題なのです。喫煙者というのは、何か他に習慣性のある動機付けが与えられれば、それを断ち切れずに、富を吸い上げられ続けるタイプの人だと言えるでしょう。つまりは、カモです」
「僕がカモタイプだっていうのか」
拓磨はブルブルと身体を振るわせながら言った。何も知らないクセに。何も知らないクセに偉そうに言いやがって。
「ほう。カモタイプだと言われて怒りましたか? なら、カモを卒業してはいかが?」
「煙草をやめろというのか?」
「やめることができれば、カモタイプではないと認めてあげますよ」
「悪魔め」と反射的に拓磨は口走った。
その瞬間に、男は照れ笑いを浮かべた。「あれ、分かっちゃいました?」
「まさか……」拓磨は驚きのあまり、その男の顔を見つめた。
「ばれちゃ、しょうがないですね」と男は頭をかいた。「いかにも私は悪魔の一員です。人間の苦悩をエサにしおります」
「じゃあ、さっきからの話は全部でっちあげ?」
「いえいえ。すべて事実ですよ」と男は微笑んだ。「何しろ、習慣性物質を日常的に摂取している人間に、それの悪いところを説いて、更には摂取をやめることを勧めるというのは、相手の人間に強い苦悩を与える行為ですからね。これは実に美味なものです」
「なんてこった」
「しかし、あなたの苦悩はあまり美味とは言えませんね。人間の割に、苦悩が少ないというか。別の種類の味がするというか……」
「その理由は簡単ですよ」と拓磨は答えた。「僕も悪魔ですから。魔力も乏しい下っ端ですけどね」
「おやまあ」と男は目を丸くした。「しかし、どうして……」
「禁煙になっていない飲食店を探して、客の多い時間にわざわざ行って、食事をしている連中に向かって、ぷか~~っと吹かしてやるんですよ。中に、それが酷く不愉快な奴がいれば、美味な苦痛の感情が楽しめるという実に楽しい一時になりまして……」
男は伝票を手にとって立ち上がった。「なら、同族相手に苦しめても無意味ですね。調査不足でした。ここの払いは私が持ちますよ」
「ホッとしましたよ」と拓磨は身体から緊張を解いた。
「それは、まだ早いでしょう」と男はニヤリと笑って拓磨を見下ろした。「人間の作った習慣性物質などに、むざむざと習慣づけられた哀れな下っ端悪魔。人間のためにせっせと納税する情けない悪魔。もちろん、悪魔倫理院への報告は怠けないつもりですよ」
拓磨の顔は青くなった。
手はブルブルと震えていた。
そして、ふと気付いたかのように、拓磨は手を胸ポケットに伸ばした。そこには煙草の箱が覗いていた。
おわり
(遠野秋彦・作 ©2002,2003 Tohno, Akihiko)
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