ふたりはプリキュアの第1話しか見ていない段階で、こんなものを書く意味がどれほどあるか分かりませんが。
川俣さんがマリア様がみてるについて書いた文章に出てくる脱ジェンダーという言葉でこの作品も見ることができるのではないかと気付きました。
ジェンダーとは何か §
ジェンダーとは社会的な性の役割のようなものです。実際の性別とは別に、社会的な性があるわけです。たとえば、男性が、女らしい服を着て、女のように振る舞うことは、女というジェンダーを獲得する行為であると言えます。ジェンダーは肉体的な性別とは独立したものであり、また、時代や地域によって変化しうるものです。
さて、これまでの多くのアニメは、ジェンダーに対して特化したマーケティングを強めてきたという見方ができるかもしれません。たとえば、様々なタイプの美少女を取りそろえたアニメは、男性というジェンダーに対して補完的な女性というジェンダーの表現に特化していると解釈するわけです。ここで問題にされるのは、見る側の肉体的な性別ではなく、自分の立場を社会的にどのような位置にあると考えて見るかというジェンダーです。実際に、肉体的に男性でありながら、美少年を何人も並べたアニメを楽しんで見るという事例はあり、この場合、見ている男性は女性のジェンダーを頭の中に設定して見ている可能性があり得ます。
脱ジェンダーとは何か §
脱ジェンダーとは、ジェンダーを明確に設定した上で、それに対するアピールを極限まで高める方法論の対極にあるものです。つまり、ジェンダーが不明瞭であり、男の側に行ったり、女の側に行ったりすると言うことです。
たとえば、マリア様がみてるの場合は、スール(姉妹)というシステムによって、ある少女は上級生にリードされる受動的な役割を果たすと同時に、下級生をリードする能動的な役割も担うことになります。もし、能動的な役割が男性的であり、受動的な役割が女性的であると社会がジェンダーを規定するなら、2つのジェンダーの間を往復するような形になります。
このような、特定ジェンダーに固着しない状態を肯定的に捉えることを、ここでは脱ジェンダーと言ってみましょう。
脱ジェンダーの物語が成立するためには、性別意識の希薄化という条件が必要かもしれません。マリア様がみてるの場合は、女の子しかいない学校を舞台にすることにより、肉体的な性別が同一化され、それゆえにジェンダーをどちらの方向にも揺らし易い構造になっていると言えます。
プリキュアの場合 §
プリキュアの主人公は二人組です。ショートヘアのボーイッシュな美墨なぎさと、ロングヘアーでフェミニンな雪城ほのか……、のように見えますが、そんなに単純には割り切れません。
なぎさは、女の子にもてまくってラブレターをたくさんもらう立場にありますが、それに興味はありません。むしろ、内面は女の子っぽいところがあります。
一方のほのかは、ロングヘアーで女らしく見えながら、俗説などを受け付けない論理的な性格です。また、化学の実験なども楽しんでいます。これらの特徴は、女性というよりは、男性のジェンダーに属します。
つまり、この二人は、外面的なジェンダーと内面的なジェンダーが逆行しています。
それにより、外見がボーイッシュであるなぎさの方が、むしろ言動に女の子っぽさをにじませたりします。
気持ちと行動の差 §
話はそこで終わりません。
内面的に、なぎさが女の子っぽく、ほのかが男の子っぽいとしても、バトル中の行動見ていると、ピンチのほのかをサッとなぎさが助けにはいるような行動が取られ、これがまたピタッと決まります。彼女らの気持ちとは裏腹に、咄嗟の行動として、なぎさは男の子っぽいジェンダーを感じさせる行動を取り、ほのかは逆の行動を取ります。
つまり、この二人は、二人とも相互補完的に2つのジェンダー間を揺れ動く存在となっています。けして、外見で誤解されやすいジェンダーの持ち主ではなく、そもそもジェンダーが不確定な部分がある存在に見えます。
そして、それが新鮮さを感じさせると共に、誠実さを感じさせます。
実は、ジェンダーなどというものは完全に固定されたものではなく、いくらでも揺れ動くのが普通だと思うからです。特定のジェンダーを完全に身につけた完璧な社会的な男、あるいは女など、この世にはいないでしょう。だからこそ、脱ジェンダー的なキャラクターは面白い、と言えます。
そして、二人のジェンダーがどちらの方向にも動きうるのは、女の子の二人組という肉体的性別が大きな影響力を発揮しない組み合わせだからだと見ることができます。
名前もよく見ると §
二人の名前も、実に意味深です。まず、美墨なぎさの美墨という姓。ここで美少女アニメの主人公として「美」という文字が入るのは誰もが納得するところでしょう。しかし、「墨」という字は、明らかに美少女の名前にふさわしい文字ではありません。一応、変身するとキュアブラックとなるので、ブラックを意識させる 「墨」という字を当てたという解釈はできますが、それにしても、同じものを意識させるもっと綺麗な文字があるでしょう。しかし、そういう文字を使わなかったのは、名前に女性的なジェンダーを意識させない要素を入れたかったのかもしれません。つまり、美墨とは、女性的文字と、非女性的文字の合体名であると見ることができます。
雪城ほのかも同じです。雪は女性名として見ることができますが、城は戦うための施設を意味する言葉であり、ジェンダー的な意味での女性らしさを持ちません。この名前も、女性的文字と、非女性的文字の合体名であると見ることができます。
それから、変身後のキュアブラックとキュアホワイトという名前も意味深です。黒と白は、単純に考えると、悪と善になぞらえる色であるかのように思えますが、どちらも正義のヒーローである以上、そのような解釈はすっきりしません。では、黒と白にはどんな意味があり得るのか。それは無彩色であるということです。赤や青といった色を持たない中立的な存在であると言えます。つまり、成り行き次第で赤くも青くも染めることができるが、けして特定の色に染まり続けはしない、と考えることができます。とても脱ジェンダー的な考えです。もし、特定の色を付けてしまえば、その色に引かれた何かのジェンダー的な印象が付いてしまうかもしれません。
擬似恋愛する二人 §
第1話で、なぎさがほのかを意識するシーンは、少し恋愛的なドキドキ感があります。
しかし、レズのドラマになる気配はありません。
おそらく、彼女たちにとって気になる男の子もこの先登場するのでしょう。
しかし、それはそれとして、なぎさとほのなは精神的に特別な関係になる可能性はあるように思われます。単なる親友よりも親密であるが、本当の意味での恋愛ではなく、他に好きな異性ができる余地のあるような関係。
これが魅力的に思えるのは、おそらく、恋人という関係が窮屈な義務に絡め取られているという印象がどこかにあるからでしょう。そういう窮屈さのない自由な関係を持つこと。とても大切な人を持つこと。それが、とても魅力を感じさせるのかもしれません。
これは未来予測ではない §
もちろん、この作品が、本当にそのような展開になっていくかどうかは分かりません。
これは、未来予測ではなく、あくまで第1話を見て浮かんだイメージを書き留める感想文に過ぎません。第1話の段階では、まだまだ明かされていないこと、見せられていないことも多くあるはずですから、まだまだ予測など立てようもありません。あくまで、これは感想文です。