2004年10月02日
川俣晶の縁側過去形 本の虫感想編 total 3128 count

Comic新現実 vol.1―大塚英志プロデュース 角川書店

Written By: 川俣 晶連絡先

 何となく、寝る前に途中から見始めたら、面白くて読み切ってしまいました。

メタテキストを読む §

 読んでいて、いちばんハッとした部分はこれです。

飛鳥井全死は間違えない 第2話 自由への道程 その1 元長柾木

p266より

 俺が解釈したところによれば、メタテキストとは他人の「視点」だ。全死は他人の視点を読むことができる。

 これは前にインターネット上の知の問題は「異なる立場に立って考えることの欠如」であると言えるか?として書いたことを思い起こさせました。本当に関係があるかどうかは分かりませんが。この件に関してのみ、割と近い線を共有している可能性はあるな、と感じました。

 それにしても、この小説は面白いですね。淡々と日常的に人を殺し続けている主人公。しかし、狂っているわけでも、感性が摩滅している訳でもありません。実に面白いです。しかも、全死というのがキャラクターの名前であって、しかも女性であるというのもインパクトがありますね。

安彦良和の突き抜けられない部分の正体 §

 以下敬称略で行きますね。

 安彦良和と大塚英志の対談は、はっきり言って不毛な言葉の応酬に過ぎないと思いました。

 安彦良和は、大塚英志の言っていることを理解できていません。おそらく、それを受け入れる思考の枠組みそのものが存在しないか、あるいは受け入れてしまうと過去の自分の全否定になりかねないので拒絶しているように思えます。

 大ざっぱに言えば、大塚英志は勝ち負けを決めるシステムの健全性を問題にしているのに対して、安彦良和は勝ち負けしか問題にしていないように思えます。極論すると、大塚英志の目指す未来とは自らの主張が勝利するとは限らない世界、と言えます。仮に自分の主張と異なる主張が選択される未来が来るとしても、それはそれで良いと考えているように思えます。

 しかし、安彦良和は勝ち負けの問題ではない、という部分を最後まで受け入れられません。そこに、安彦良和の超えられない限界のようなものを感じます。それ浮き彫りにしたことが、「不毛な言葉の応酬に過ぎない」と感じるこの対談の真の存在意義ではないかと思います。

 それによって、私が昔から持っていた疑問、なぜ安彦良和が自ら主導した作品は(私の個人的感想として)つまらないのか。たとえば、なぜ、巨神ゴーグはつまらないのか。なぜ、劇場版クラッシャージョーは、原作小説のようなスカッとした面白さを持てなかったのか。(最近、偶然ケーブルテレビで安彦良和監督作品ではないOVA版のクラッシャージョーをちらっと見たのだけれど、それはスカッとしていた)。

 更には、気の迷いで(あるいはトニたけ目当てで)ガンダムエースを買っていた一時期、それなりに楽しみながらオリジンを読んでいたのに、ガンダムエースを買わなくなったあと、単行本を買ってまでそれを読みたいと思わないのはなぜか。

 その疑問への答えが得られたような気がします。

 確かに、安彦良和は個々の絵、細部の描写に関しては非凡な才能を持っているものの、人間であるとか、社会を把握する能力に何か致命的に欠けているものがあるように思います。ただ、そのような欠落は、多くの人間が持っているものであって、それが人として欠陥があるという評価にはつながりません。しかし、持っていないものを持っていると思い込んだ人間は、社会的に迷惑な存在になるか、あるいは社会から阻害されることになると思います。おそらく、安彦良和の敗因は、自分が持っていないものが何であるかについての自覚を欠いたことではないか、という気がします。

特集かがみあきらについて §

 かがみあきら、という人物について良く分からなかったので、特集を読んで分かるようになれれば良いとささやかに思いました。

 でも、分かりませんでした。

 次号でも特集するようなので、それに期待します。

まとめとして・何が面白いのか §

 最終ページの1つ前に、「読者が面白いかどうかは知らん。」と投げやりとも思える言葉があります。たぶん、これがキーポイントです。おそらく、書き手は自分が面白いと思うことを、精一杯送り出しているはずです。しかし、他の普通の出版物と異なり、想定読者の水準に合わせて分かりやすいようにフィルタリングしたり、加工したりはしていないのだと思います。だから、この本の中に込められた面白さは、読者が自ら能動的に発掘していかねばならないのでしょう。読者として、そのような読み方ができるかどうかが、この本を楽しめるかどうかの踏み絵になる、という気もしましたが事実かどうかは知りません。

 とりあえず、この感想を読んでいる読者には、これぐらいは買って取り組んでみろ、という言葉を投げかけて見ることはできると思います。ただ、能動的に面白さを発掘していくという作業は、それを行う基礎的な訓練ができていないと、単純にできないという結論で終わる可能性も高いと思います。それでも、チャレンジしなければ進歩もないので、チャレンジする価値はあるでしょう。

 ちなみに、基礎的な訓練とは、まさに基礎的な訓練であって、けして才能や学歴の問題ではありません。あいつは頭がいいから分かるのだ、というような話ではなく淡々とした反復トレーニングのようなものをコツコツ積み上げて得られるものだと思います。

オマケ §

 読み返して気付きました。

 「それでも、チャレンジしなければ進歩もないので、チャレンジする価値はあるでしょう」と書いた私の言葉は、安彦・大塚対談における大塚氏のスタンスと似た匂いがします。

 これは勝ち負けの問題ではありません。何の訓練も受けていない者がチャレンジして勝てる確率がどれぐらいあるのか、といえば、勝てる見込みはかなり薄いと思います。そういう意味で、負けることは分かり切っていると格好良く言ってみせるのが安彦風。勝ち負けの問題ではなく、チャレンジする過程で多くのものが得られると思うのが大塚風でしょう。もちろん、チャレンジする価値があると書いた私は、大塚風の立場にあたります。