あと1回、ハウルの動く城を見ておきたいと思っていましたが、年末年始、特に土日祭日は混みそうです。というわけで、スケジュールの都合上は12月23日に行くのが良さそうなのですが、祭日ゆえに混雑が怖いので、自主的に22日に見に行って23日はお仕事をすることにしました。
DLP上映は綺麗だった §
DLPでも見ておこうと思っていたので、日比谷スカラ座に行きました。
やはりDLP上映は綺麗ですね。フィルムとはひと味違います。
やはり泣けた §
泣けました。
やはり良い映画です。
人間的な暖かみが素晴らしい作品です。
ソフィーが魔女であるこれだけの証拠 §
ソフィーは魔女だろう、というあたりは付いていましたが、その証拠となる描写を宮崎監督は映像の中に含めたかどうか。そのあたりを確認したいと思ってみました。
まず、最初にハウルとソフィーが空中を歩くシーン。ここで、ハウルはソフィーが足を動かすことにこだわります。その後の描写を見ると、ソフィーは、ハウルに支えられて空中に浮かんでいるのではなく、自分で空中に浮かんでいるように見えます。この描写は、ソフィーが魔女であり、空中を歩く方法をハウルが伝授したと考えると辻褄が合います。
サリマンの前から逃亡するシーンも、一見すると翼のあるハウルが温室から飛び出したようにも見えますが、ソフィーが飛翔する魔力を無意識的に使ってハウルを連れ出したという可能性があり得そうです。もし、ハウルが自ら飛んだのであれば、そのまま飛び続けることができたはずです。しかし、即座に地面に落ちてしまうのは、それがソフィーの無意識的な魔法発動であると考えるとすっきりします。
秘密の隠れ家から城に逃げ込むシーンではもっと露骨に、ハウルから離れたソフィーが、自分だけで空中を歩きながらドアに飛び込みます。
もう1つ、ソフィーがカルシファーに水を掛けても大丈夫だった、というのもソフィーには契約に干渉するだけの魔力がある可能性を示唆します。
また、ソフィーは2回ぐらい、自分は魔女だと言っています。これは、調子の良い年寄りの嘘のように見えて、実は真実を言い当てているかも知れません。ソフィーは嘘として言ったかも知れませんが、誰もそれに異議申し立てをしていないところを見ると、周囲からもソフィーは魔女であると見られていた可能性もあります。
外見と中身のミスマッチ §
やはり面白いのは、老婆になった時の方が小娘のような声を上げるソフィーでしょう。
つまり、老婆の姿になることは、ソフィーの何かを解放して、素直な年齢相応の精神を解放する手段になっているということです。
逆に、序盤の若い姿の年寄り臭さは、それを解放できずに拘束された状態と言えますね。
外見と内面が逆転しているように見えるところが、この映画の面白いところです。
呪いの正体 §
ソフィーは荒地の魔女の呪いで老婆になります。
しかし、ソフィー自身の内面によって年齢が変化する状況も発生します。
この2つは、矛盾しているように見えます。
しかし、これは単純な呪いではないと言うことが、カルシファーの台詞によって示唆されています。単純な呪いとは、「荒地の魔女の力でソフィーを老婆にする」というようなものでしょう。しかし、そのような呪いではないわけです。
ここで、ソフィーが無自覚的な魔女であるという前提と、ソフィーは自分自身を拘束している存在であるという前提を導入すると、すっきりと答が出ます。
つまり、ソフィーにとって、老婆になることが解放であるならば、荒地の魔女の呪いとは無関係に老婆であり続けることに価値が生じます。実は荒地の魔女の呪いは非常に早いタイミングで解消されており、それ以後の老婆化は、ソフィー自身の無意識的な魔力発動のみによるものと考えられます。しかし、ソフィー自身の無意識が望む姿は常に一定というわけではなく、状況に応じて姿が変わります。
荒地の魔女の呪いはいつ解けたか §
以上のように、ソフィーの老婆化は、荒地の魔女の呪いと、ソフィー自らの無意識の魔法の両方によって成立した複合的な状況と推理できます。
しかし、年齢がソフィーの精神に応じて変化する状況は、ソフィーの魔法によってのみ発生しうると考えられます。つまり、どこかの時点で、荒地の魔女の呪いは解けているはずです。
では、そのタイミングはいつか。
最初は、サリマンによって荒地の魔女の魔力が奪われた時点かと思いましたが、それよりも早くソフィーの外見の変化は発生しています。
その手前で起きた荒地の魔女関連の出来事といえば、荒地の魔女の手紙をハウルが消してしまった事件が考えられます。これ以前にはソフィーの年齢の変化は起きていません。
この時点でハウルは呪いは消えないと言っていますが、その呪いが指し示すものが、荒地の魔女の呪いではなく、ソフィーが自分に与えた呪いであるとすれば、筋が通るように思えます。
したたかなカブ §
ラストシーン、よく台詞を聞いていると、カブだった隣国の王子様は、ソフィーの心変わりがあり得ると考え、ハウルから奪い取るチャンスを虎視眈々と狙っているように思えます。したたかですね。
あぶれた者達を引き連れるヒロイン §
千と千尋の神隠しで、千尋は坊やカオナシを引き連れて油屋を出ます。
同様に、ソフィーは荒地の魔女やフィンを連れて城を出ます。
これは、新しいパターンの宮崎ヒロイン像と言えるかも知れません。そして、これはヒロイン達を理想の人形から生身に引き戻す行為というよりは、神格化するような方向性と言えるのかもしれません。(要検討)
一人称の映画 §
この映画は、ほぼすべてソフィーの見聞きしたことしか描かれていません。
例外は、本当に少しです。空で戦うハウルであるとか、最後にフィンを通して見ているサリマンであるとか、サリマン先生の贈り物を物色する荒地の魔女であるとか。それを確認できました。