初めまして、岡野勇さま。
これは、岡野勇さま宛の公開されたお手紙として書かれています。公開されているということは、手紙という体裁を通じて、実は不特定多数の読者、特に私のサイトの読者に読まれることを意識しているということを意味します。
ここでは、オタクに対する偏見に無条件に反論できないという岡野勇さまの「今、そこにあるオタクの危機」についての極私的な感想を述べさせて頂きます。
具体的には以下のテキストを対象とさせていただきます。申し訳ありませんが、精読している時間がないので、読み落とし、勘違いなどがありましたらご容赦下さい。
対象テキスト §
自己紹介 §
岡野勇さまは私のことをご存じないと思うので、簡単に自己紹介させていただきます。といっても、これは単なる形式的な略歴を書くということではなく、自分の立ち位置、感想に至るコンテキスト(文脈)を示すために必要とされるものですので、本論の一部となります。
まず、私は「トーノZERO」と名乗っています。
肩書きは「アニメ感想家」です。
Body First! オータム マガジンというサイトのトーノZEROというコーナーで、主にアニメの感想を書いています。
もともとは、「アニメ感想家トーノZERO」になろうと思ったわけではありませんでした。最初は、ネットワーク小説家「遠野秋彦」として書いた小説に読者を付けるためには、何かウケることをして人目を集める必要があると思ったのが契機です。そこで当時流行していた「ちゆ12歳」が特撮の感想を書いて人気があったのを見て、それでは自分はアニメの感想を書こうかと思いました。しかし、すぐにアニメの感想を書くことそのものが面白い、ということに気付き、人目を集めることではなく、自分の感想を書くことが主力になるという本末転倒状態に陥って今に至ります。
さて、なぜ肩書きが「アニメ感想家」なのかといえば、もちろん感想を書く人であるという表明ではありますが、その裏側にある意図は「アニメ評論家」ではないという表明です。評論とは、「物事の善悪・価値などについて批評し、論じること。また、それを記した文」(三省堂 『大辞林』)という意味だそうですが、「物事の善悪・価値などについて」取り上げる事はあるにせよ、基本的に作品そものものに対する「批評」はしないのがスタンスです。
では、なぜ「批評」はしないのか。アニメのような虚構のドラマの場合、客観的な善し悪しの尺度を導入することは極めて難しいからと言えます。私が駄目だと思ったアニメが、実は単に私がその作品の価値を理解するための資質を欠いているだけ、という可能性もあります。そのような状況で、そのような作品を「失敗作」であるとか、「こうすればもっと面白くなる」などと書くことには何の意味もありません。
さて、そのようなバックグラウンドは、単にバックグラウンドとして持っているだけでも感想は書けます。しかし、あえて毎度毎度感想文の冒頭で「アニメ感想家」の肩書きを繰り返すのかといえば、(それには検索エンジン経由で来るサイトのコンテキストを知らない読者への配慮もあるものの)、その理由は上記のような意味のない文書を書く評論家気取りの多くの「お子様達」がインターネット上に存在し、むしろ暇を持てあます彼らの文章ばかりが目立つという状況へのささやかな抵抗のためです。
つまり、明らかにTVの画面から送り出された音や映像に込められた様々な情報を見落としているにも関わらず、まるで作り手のスタッフと対等、いやそれ以上の立場になったような態度で作品の善し悪しを断定してしまう人達があまりにも多いと感じるのです。このような状況に一石を投じることが、「アニメ感想家トーノZERO」の存在意義と考えます。
具体的な例を挙げると、たとえば「アニメ感想家トーノZERO」の舞-HiMEの感想は、巨乳や下着といった記号に(岡野さまの言葉を借りれば)「脊髄反射的」に反応しているだけのリアクションには一切関わらず、いかに良心的なドラマ作りをしているかに焦点を絞った感想を書いています。もちろんそのような感想を書いているのは、私自身のまったく正直な感想の反映でもあります。巨乳だろうと下着だろうと、そんな手垢の付いた当たり前のネタなど、とうに飽きるほど見ています。現在のアニメ状況の中にどっぷりと浸かっていれば、それが当然のリアクションだと思います。それらの記号は、視聴者を食いつかせるための撒き餌に過ぎず、その先でいかに充実した内容を見せるかが勝負どころだと感じます。
もちろん、経験の少ない若いアニメファンであれば、それらの撒き餌は十分に魅力的であり、それを消費するだけで満足して終わるということもあり得るでしょう。それを否定するつもりはありません。
しかし、その先に、実はもっと別のメインディッシュが用意されているのだ、ということを気付く「チャンス」を誰かが用意することも悪いことでは無かろう、と思います。
さて、そのような「チャンス」があったとして、はたしてそれが活かされるのかどうか。たとえば「脊髄反射」しかできない「ライト・オタク層」がそのようなチャンスを活用できるのか、という疑問があり得ると思います。それについては、解らない人は永遠にそのような「チャンス」が存在するということすら永遠に気付かないだろうと思っています。彼らに対して何かができるとは思っていません。
しかし、世の中にいるのは、そのような人達ばかりではないと思います。「ライト・オタク層」は厚い層であるために、その中には気付くことができる人もいるだろうし、アニメを見ているのはオタクだけではないという現状からすれば、「ライト・オタク層」ではないアニメを見る人達の中に、それに気付く人がいるかもしれません。
もちろん、それに気付いたからと言って、私の主張に賛同する必要など全くありません。個人的な感想は個人的な感想であって、それとは異なる感想はいくらでもあり得ます。これは、その人なりの感想を持つための切っ掛けになれば良いと考えて書かれたものであって、正解を提示するものではありません。
その意図を示すためにも、アニメ「感想」家という肩書きが意味を持ちます。感想とは属人的なものであって、人によって違うことが当たり前であるというニュアンスを持ちます。
余談: 岡野さまはワンフェスにも行かれるようなので、自己紹介の余談として補足しますが、GKの宇宙艦の原型を3つほど作って、ディーラー参加も数回経験しています。力及ばず、ぜんぜん売れずに撤退してしまいましたが。
「萌え」の定義 §
では、本論に入りたいと思いますが、その前に私なりの用語の定義を行いたいと思います。
ここでは少なくとの「萌え」「アニメファン」「オタク」の3つの定義が必要だと思いますが、「アニメファン」「オタク」の定義は私の主張の本題となるので、ここでは「萌え」の私的定義だけ書いておきます。
萌えとは基本的には「好き」である。
単なる「好き」よりも強い「好き」である。
しかし、人生を賭けるだけの覚悟は持っていない「好き」である。
あるいは以下のように言い換えても良いと思います。
萌えとは本気の恋愛感情に至る直前で寸止めされた感情である
この文章を書くためにあらためて考えてみましたが、なぜ「萌え」という言葉が生まれる必要があったのかが、この定義から推測できます。架空の人物に恋愛感情を抱くことは、特にオタクの専売特許でもなく、小説の世界などに昔からあった現象です。しかし、実在しない人物への本気の恋愛感情は、他人の立場で見ていると痛いものです。オタク文化は、この痛さを回避するために、本気になる直前で寸止めする「萌え」という概念を自然発生的に生み出したのかもしれない、と気付きました。これが本当かどうかは解りませんが、この解釈が正しいとすれば、単なる好きから一気に本気の恋愛感情に突き進むしかなかった過去のメディアとは一線を画する画期的な発明を行ったことになります。
余談: 「萌え」が生まれた頃の「萌え」と現在の主流の「萌え」の相違点は、おそらく「寸止め」の度合いにあるように思います。かつての「萌え」は本当に恋愛感情ぎりぎりまで接近ていましたが、今の「萌え」はそれほどぎりぎりまで突き詰めていないことが多い感じがします。逆に、今時のオタクであっても、ぎりぎりまで突き詰めている者達の「萌え」は鬼気迫る爽快感を感じさせてくれて、これは肯定的に見ています。
「萌え」嫌い §
岡野さまは、「僕は“萌え”って言葉が嫌いだ」と書いていますが、これは私も同じです。
私が書いたアニメ感想の中には、「萌えとしか叫ぶことができないオタク」というような表現がしばしば出てきますが、もちろん否定的なニュアンスで使われています。
もちろん、私も「萌え」という言葉を正当な意味で文章中で使うケースがありますが、多用はしません。もっと他に適切な表現があるのに、「萌え」としか書かないというのは単なる思考停止に過ぎません。つまり、「萌え」の多用は、私は頭を使わない馬鹿ですという表明として受け止められるリスクが存在すると思います。そして、そのような「頭を使わない馬鹿」を連想する記号として機能しているがゆえに、「萌え」という言葉には嫌悪感を感じさせるニュアンスが含まれます。
では「萌え」に嫌悪感を感じたとして、それでアニメを楽しく見ることができるのかと言われそうですが、それはできます。アニメを見る際に、私は「萌え」を問題にすることはほとんどありません。なぜなら、私はアニメファンとしてアニメを見ているからです。その理由を示すために、話の順序が逆転しますが、次に「アニメファン」の用語の私的定義に進みます。
「アニメファン」の定義 §
アニメファンとはアニメが好きな人のことです。
アニメとは、セル画やその他の表現手段を使って作られた映像作品を示す言葉です。
このような定義の中に、「萌え」という言葉は全く関与しません。
言い換えれば、アニメファンとは、アニメとして面白ければ、そこに「萌え」が含まれるか否かは問題ではない人達であると言えます。
むしろ、アニメとしての美、価値、健全性を「萌え」という価値観が脅かしている、という側面すら考えられます。たとえば、自分の萌えキャラが出ているか否かを購買基準に据えた者達を顧客として意識すれば、作品として著しく不自然になろうとも多数の「萌えキャラ」を登場させようとすることになります。このような顧客は、キャラのファンであっても、アニメファンではありません。これは、キャラのファンの方が格下であるとか間違った存在であると言っているわけではなく、利害を異にする別の人種であるという主張です。
そういう意味で、キャラのファンと同様に、好きなマンガ(小説)を原作としたアニメを見るマンガ(小説)ファンらや声優ファンも、アニメファンとは別人種です。
それらを別人種であるという前提を踏まえて、トーノZEROはアニメファンです。
もし「オタク」という場が崩壊したら §
岡野さまは、「オタク」という場が崩壊したら……という可能性について語られています。
それについて、アニメファンという立場から考えてみました。
その結果、何も困らないという結論になりました。
「オタク」という場が崩壊したらアニメは無くなってしまうのか、といえば、それは考えられません。オタク向けではないアニメも多数存在し、またアニメを見ている者達の中には、オタクではない者達が多数存在します。極論すれば、「オタク」という場の崩壊によって失われるのはオタク向けアニメだけであって、私が見ている大多数のアニメが消えることはないだろうと思います。
別の言い方をすれば、現在のアニメファンとオタクは、実はあまり重複していないのではないか、という印象があります。
では、自分たちを指し示す「オタク」という愛着のある言葉が使えなくなる問題に対して、何の気持ちも無いのかといえば、その問いかけそのものが無意味であると答えることができます。
そもそも、オタクという言葉が生まれる前からずっとアニメを見ていた立場からすれば、オタクという言葉は後付でこちらの行動をカテゴライズするために生まれた言葉に過ぎません。オタクという言葉の有無は、私の行動に何ら影響を与えないのです。むしろ、差別用語としてのオタクという言葉を投げかけられた時代のことを思えば、オタクの消滅に悲しさを感じようはずもありません。
「オタク」の定義 §
話の順序が逆転しますが、最後に極私的な「オタク」の定義について書いて終わりたいと思います。
正直、今のオタクの問題が、自分の問題であるとは到底思えません。
つまり、極私的な「オタク」の定義とは「他人事」であると言うことになります。
しかし、これでは意味のある定義とは言えません。
もうちょっと、具体的な言葉で言い直すなら、定義は2つに分かれます。岡野さまが仰るとおり、現在のオタクには相異なる2つの人種があると思います。
この2つにはいろいろな表現方法があって、それぞれに妥当性があると思います。
ここでは「開拓者オタク」と「移住者オタク」という言葉を使ってみたいと思います。
「開拓者オタク」とは、オタクという存在のあり方が未確定の状態で、結果が見えないにも関わらず参加した者達とします。彼らは、未開拓、あるいは先駆的開拓者が少数いるだけの領域に、自分の判断で孤独に乗り込むタイプの者達です。つまり、安定を望まず、冒険無しでは生きていけません。
それに対して、「移住者オタク」とは、既に出来上がった世界に参加した者達とします。彼らはオタクになることがどういう事かを、事前に知ることができ、周囲のオタク達から祝福されながらオタクの地に足を踏み入れます。つまり、未知なる冒険は望ます、安定無しでは生きていません。
この2つのタイプはあくまで傾向であって、全てのオタクがどちらかに分類できるとか、初期のオタクは全て「開拓者オタク」の条件を満たすというわけでもありません。
しかし、全体的にはこのような傾向が見られると思って良いと思います。
このように考えた時に、「開拓者オタク」と「移住者オタク」は、水と油の関係であると結論できます。安定志向と冒険指向の者達は、互いに反発し合うのが必然です。
このような反発関係は、既に随所に見られると思います。
非常に単純化して考えれば、反発の結果、起こる可能性は3つあります。
- 「開拓者オタク」の勝利による「移住者オタク」の追放
- 「移住者オタク」の勝利による「開拓者オタク」の追放
- 両者共倒れによる「オタク」崩壊
最初のケースは、おそらくあり得ないだろうと思います。「開拓者オタク」は、冒険好きであり、既に出来上がった場所の防衛には向かないタイプです。
2番目のケースはあり得ると思います。というよりも、既にそのような傾向は出ていると思います。たとえば、その領域の始祖、偉大なる開拓者が評価の対象にもされないような事態をしばしば見かけるような気がします。印象に過ぎないので、具体例をと言われても困りますが。
3番目のケースは、良く分かりません。もしかしたらあり得るのかも知れません。
なお、2番目のケースは、そのまま進むと「オタク」崩壊につながると思います。(岡野さまが論じている話と関連します)
もし、以上のよう構図が適切であるとすれば、「オタク」崩壊は不可避であるという結論になります。
個人的には、壊れるのなら壊して作り直しても良いと思います。特に、かつてのオタクの常識に縛られない、純粋な若者達の作るアニメのファンサイトなどを見ていると、彼らのためにまっさらの新しい場所を用意してやっても良いのではないか、という気もします。男なら萌え、女ならヤオイをやるものだ、というような常識を彼らに押しつけたくはない気がします。
余談: 男女が同じアニメを見てファンとなり楽しむ、という光景はずっと昔にはありました。そのような状況を取り戻したいと思うなら、今の「オタク」は邪魔になるだけです。特に、男性にも女性にもファンがいるアニメが出てきたことで、その感は強くなります。
終わりに §
岡野さま。(並びに、あえてこのような文章を読んだ方々)。
このような駄文を最後までお読み頂きありがとうございます。
もちろん言うまでもありませんが、以上のような話は単なる私の今現在の感想に過ぎないもので、これが正しいかどうかは解りません。むしろ、正しくないと思って読むのが賢い態度だと思います。
そして、いわゆるここで問題にされているオタクの方々には、この文章が書かれたコンテキスト(文脈)を把握しようとすることなく、個々の言葉に「脊髄反射」的にリアクションすることは、失笑を招く行為であるということも付記しておきます。
ちなみに、このサイトで使われているMagSite1というソフトにトラックバックの機能はあってもコメント機能はありません。開発者によると、その理由は、読んだ直後にすぐ書き込めるコメント機能がまさに「脊髄反射」的リアクションを誘発するツールだからだそうです。
岡野さま以外の方への本筋と関係のない強調 §
今回、感想の対象とした文章で最も感心したのは、実は個々のテキストに名前と日付が入っていることです。これは、当たり前に見えて必ずしもきちんと守られていないことです。こういう基本をまず踏んでいくことは、他人から信用される文章を書く第1歩です。本来は常識ですが、インターネット上では必ずしも守られていない常識です。
なお、これは本名を書けという意味ではありません。ペンネームだろうとハンドルネームだろうと、他人と識別されるための名前を入れる必要がある、ということです。