僕は愉快な気分だった。
目の前のテーブルには、このファーストフード店で最も高価なハンバーガーが山盛りに積まれていた。個数限定のまさに本当のスペシャルメニューで、この店の常連の若者達であれば、羨望の眼差しを投げる対象になる。彼らは、いつも「食べられるものなら、これを食べたい」という視線を投げながら、遥かに安価なハンバーガーを注文しているのだった。
しかし、そのようなスペシャルなハンバーガーを目の前にしているから愉快な気分になった、というわけではない。これは僕が食べるものではないからだ。
そう、このハンバーガーは、目の前にずらっと並んだ5人の背広姿の四十を過ぎた立派なオジサマ方に食べさせるために、僕がわざわざオーダーしたものなのだ。
彼らは言った。
「これ、本当に食べるのか?」
「こういうのは、ちょっとなぁ」
「もう子供じゃないし……」
彼らは、みな一様に居心地の悪そうな不機嫌な顔つきになっていた。可能ならば、今すぐにでもこの若者好みの騒々しい店から逃げ出したい、と顔に書いてあった。けして、テーブルの横をこちらを伺いながら通り抜ける高校生達と同じように、スペシャルなハンバーガーに目を輝かせたりはしていない。もちろん、それは当然のことだ。人間、それなりの年齢になれば、食事の趣味も変わる。若い頃はハンバーガーが大好きでも、いつの間にか煮物の方が好きになったりするのだ。しかも、彼らはみな、サラリーマンとしては成功していて、接待などで高級料理を口にすることも多い。彼らの奥さんも、みな料理上手だといい、けして夕食にファーストフードを買ってきてお茶を濁したりはしないのだという。いつの間にか、ファーストフードなど、子供のつまらない食べ物という意識も芽生えていたのだろう。
それにも関わらず、彼らはこうして渋谷で一番人気のファーストフード店の椅子に座り、彼らから見れば子供騙しの安っぽい食べ物に過ぎないスペシャルなハンバーガーを前に大人しく座っていなければならないのは、僕らの強い約束であるからだ。
24年前に、僕らはこの渋谷で1つの約束をした。いや、より正確には、賭をしたのだ。
当時、僕らのクラスメートだった奇人変人で名高い芦田君が、社会の最先端の人として脚光を浴びるか否か。僕は、絶対に脚光を浴びる日が来ると確信して、それを強く主張した。しかし、他の5人はそれを信じなかった。そこで、自然な成り行きで賭をすることになった。僕らはそれなりに本気であったから、賭に負けたときのペナルティは、高校生の財力で賄うことが不可能ではないものの、非常にきつい水準に設定された。そして、受け取る側から見て、大きな価値のあるものが設定された。つまり、渋谷で一番人気のファーストフード店に予約席を取り、その店で最も高価なハンバーガーをご馳走するというペナルティを堅く誓い合ったのだ。
そう。この5人は、賭けに勝てば、とても素晴らしいものが食べられると確信して、この条件を堅く約束したのだ。
だが24年の歳月が、食べ物の趣味を180度ひっくり返してしまうことまでは、彼らは予測していなかった。
24年前には素敵だった食べ物を目の前にしながら、居心地悪そうにそれを見ているだけ。手を伸ばそうとしないかつてのクラスメートの姿を見ると、賭けに負けたにも関わらず愉快な気持ちが止められない……。
でも、それは愉快な気分の半分しか理由を説明していないことなんだ。
残りの半分を説明するには、長いようで短い話をしなくてはならない。
それは僕と芦田君の話だ……。
24年前……。
僕らは高校生だった。
通っている高校は、渋谷を起点とする私鉄沿線にある公立高校で、僕と、芦田君と、この5人は同じクラスだった。
そして、この時期に、近日公開予定の「スペースウォー・愛と戦士達」という映画が空前の大ブームを巻き起こしていた。
当然、クラスの中でも話題になった。
ところが、話題にするといっても、詳しい知識は誰も持っていなかった。
この映画は、「宇宙戦艦スペースウォー」の続編にあたるのだが、この映画はロードショー時にほとんど誰も見に行かなかったという曰く付きの映画だった。しかし、大学生を中心としたファンが、実は凄く面白いということを熱心に広め、各地の自主上映会や、深夜のテレビ放映を経て人気が爆発したのだという。しかし、当時の僕らのようなただの高校生には、そのような情報はまるで伝わってこなかった。いや、伝わってきても、ビデオデッキを持つことが金持ちの証しであった時代に、健全な高校生が深夜番組を見るのは至難の業だったと言える。
結局、クラスの中での『スペースウォー』の話といえば、雑誌の2ページ程度の特集に掲載された数種類の写真、主役級の数人の登場人物の名前、そして、数行のあらすじ程度を元に行うしかなかった。あとは、推測や、あやふやな伝聞を頼るしかなかったのだ。しかし、それに頼ってすら、すぐに話題は尽きた。だが、流行モノの威光に弱い者達はどこにでもいる。彼らは、流行っていると言うだけで『スペースウォー』の話をしたがった。
そんなとき、自称『スペースウォー』ファンの彼らは僕を発見した。
僕はほとんど誰も見に行かなかったという前作の映画をロードショー時に劇場で見ていたのだ。
だから、ストーリーも登場人物も、登場する宇宙船の機能と名前も、全て説明することができた。彼らは、僕の語る情報をむさぼるように聞いた。更に、僕が劇場で買ったパンフレットを、こっそり学校に持ってきて彼らに見せると、彼らの興奮は絶頂に達し、僕は『スペースウォー』の神様、クラスの『スペースウォー』ファンクラブの会長に祭り上げられていた。
正直なことを言えば、『スペースウォー』という映画は確かに面白いと思いつつも、そこまで熱狂するほどとは思えなかった。しかし、情報を伝えたり、他人の面倒を見るのは嫌いではない。そのまま、僕は何となく彼らのリーダー的な立場を受け入れてしまった。
そして、ついに新作「スペースウォー・愛と戦士達」の封切りの日がやって来た。
僕らは、ぜひとも初日の初回上映に見ようと意気込んだ。そして、上映館の中で最も設備の良い劇場が渋谷であることを突き止めると、僕らは待ち合わせて渋谷に向けて出発した。
まるで宇宙の平和を守る正義の戦士団のような気分で渋谷に乗り込んだ僕らが見たのは、劇場前の果てしない行列だった。
とても、初回に見るどころではなかった。
さすがに行列は交通の邪魔になる。劇場では、整理券を配り、行列を解散させた。
僕らは、必死に行列に割り込み、次の回に見られる整理券を手に入れることに成功した。とても、次々回まで待てるとは思えなかったからだ。
しかし、それを手に入れると、僕らは急に暇を持てあました。
劇場の前で待つことはできない。それは交通の邪魔になる。
かといって、喫茶店やファーストフード店で時間を潰すこともできなかった。僕らはさほど裕福というわけではないし、その上、劇場の売店で『スペースウォー』グッズを買いあさる予定だったから、予定外の出費の余裕などあるわけがなかった。
僕らは、人通りの邪魔にならない場所を見つけ、そこに陣取って座り込んだ。
そう。それは運命の悪戯と言って良いかも知れない。
その場所に座り込みさえしなければ、こんな賭をすることはなかったからだ。
座り込んだ僕らの目の前の壁には、ポスターが貼られていた。
そのポスターには、流行のファッションに身を固め、流行の髪型をビシッと決め、いかにも女好みのポーズを取った若者の写真が使われていた。そして、大きな文字で、「あしたはオレの風が吹く」と書かれていた。
僕らは、それを見た瞬間に、声を揃えて「ありえねぇ」と言った。
つまり、こいつの風が吹くことだけはありえないということだ。
なぜかといえば、メンズファッション雑誌で最も派手なファッションをそのままコピーするというのは、僕らの間では田舎者の証拠だとされていたからだ。
ファッションとは個性であり、いかにさりげない違いを織り込むかが真のお洒落だと言うわけだ。それが都会のセンスというものであって、ファッション雑誌をコピーするような態度は、つまり田舎者だというわけだ。
そして、このポスターのモデルの自己陶酔した表情といい、だらしなく開いた口といい、都会的なクールさとは縁がない、と僕らには見えた。
もっとも、今から思い返してみれば、ポスターのモデルをバカにしていた僕らも同類だったような気がする。僕らも、自分たちのファッションに自己陶酔し、だらしなく口を開いていたのだと思う。自分のことは見えないが、特にガキだったあの頃なら尚更のことだ。僕らは全く勘違いしていた。
しかし、他に暇つぶしの道具もないし、このムカっと来るポスターは、映画を見る時間が遅くなった腹いせに攻撃する格好の対象だった。
田舎者のくせに「オレの風が吹く」などというのはけしからん。
僕らはその点では、すぐに一致した。
しかし、ならば誰の風が吹くのだろうか?という点になると、意見が分かれた。
政治家、芸能人、ミュージシャン、映画俳優、ファッションモデルのあたりまではまあ予想の範囲内と言えたのだが、そのうちに、海外のテロ集団の首領であるとか、近くの川に出現したアゴヒゲアザラシであるとか、学校のトイレに出るという女の子のオバケであるとか、徐々に何を話しているのか良く分からなくなっていた。
僕はといえば、どちらかと言えば聞き役になっていた。しかし、僕はみんなの話を聞きながら、一人の友人のことを思い出していた。
だから、仲間の一人が、ずっと聞き役だった僕に向かって、「会長はどう思うんだよ。誰があしたの風を吹かせると思うんだ?」と言った時、つい反射的に彼の名前を答えてしまったのだ。
「芦田君」と。
一瞬、座は白けた。
皆は、僕のことをポカンとして見ている。
僕は失敗したと思った。
この場は、とりあえずちょっとだけ楽しいムードを維持しつつ、潰さねばならない暇を潰すためにある。
そのムードを壊してどうするというのだ。
そもそも、なぜ芦田君はとても理解されにくいタイプだ。なぜ僕が明日は彼の風が吹くと思ったのか、その理由を説明するだけでも一苦労となる。いや、苦労して分かってもらえるとは限らない。僕が芦田君を多少は理解しているのは、彼が斜め向かいの家の子で、幼稚園に上がる前から遊んだ仲だから……、つまり付き合いが長いということでしかない。それぐらい、芦田君は変人なのだ。つまり、言うべきではなかったのだ。
しかし、次の瞬間、一人が腹を抱えて笑い出した。
僕を含め、僕らはみな驚いた。
なぜ彼が笑ったのか、理由が分からなかったからだ。
彼は笑いが収まってくると言った。
「だってほら。駄洒落だよ。あしたは芦田(アシダ)の風が吹くってね」
次の瞬間、みんなもゲラゲラと笑い出した。
でも、僕は笑わなかった。
駄洒落を言うつもりなど、全く無かったのだ。
というよりも、駄洒落になることすら気付いていなかったのだ。
僕は急に考えを変えた。
芦田君の価値について、どうしても説明しなければ気が済まなくなったのだ。
「いや、本気なんだ」と僕は言った。
みなは笑うのをやめて、不思議そうに僕を見た。
「みんな気付いていないけど、芦田君は未来を先取りする奴なんだよ」僕は更に言った。
「あの、変人が? だって最新の流行も、みんなつまらんと言って避けて通るじゃないか」と仲間の一人が言った。
「だからさ。最新の流行のもっと先を行っているんだよ。それが流行る頃には、もう芦田君の興味はもっと新しいことに移っているんだ」
「まさか……」
「いいかい。クラスで、いちばん最初に、『スペースウォー』に気付いたのは誰か知っているかい?」
「もちろん、それは会長じゃないか……」と相手は僕を指さした。
「いいや。僕は、芦田君から誘われて、『スペースウォー』を見に行ったんだ。あの映画は絶対に見る価値があると言ったのは芦田君であって、僕は何も分からないまま付いていっただけなんだ」
「ちょっと待てよ。芦田は『スペースウォー』の話題に参加したことがないぞ。本当に、あいつは『スペースウォー』が好きなのか?」
「彼はとっくに『スペースウォー』には飽きてしまったよ」と僕は告げた。「言っただろう? 芦田君は、未来を先取りする奴なんだ。今現在のブームに興味などないんだよ」
『スペースウォー』だけじゃない。シーモンキーも、スーパーカーも、紅茶茸も、みな芦田君は先取りしていた。
だからこそ、いつか芦田君の風が吹く日が、世の中の最先端を行く男として認められる日が来る。
僕はそう言って、考えを変える気がないことを言い張った。
しかし、彼らは驚くだけで信じなかった。
そして僕らは賭をした。
結局、僕は間違っていた。
その理由は、既に僕自身が言い当てていた。
未来を先取りする芦田君は、今現在のブームに興味などない。つまり、常に世間より未来を生きる芦田君は、永遠に世間と接点を持つことはない。いつまでも芦田君は理解不能の変人であり続けた。
つまり賭には負けた。
しかし、僕はトレンドへの感度が高いトレンドウォッチャーとしてマスコミの仕事につくことができた。芦田君が何に興味を持っているかを見ていると、それだけでトレンドの未来が見えるのだ。もちろん、芦田君が興味を持つものが、全て流行するわけではない。しかし、3つに1つは話題になった。これは、とてつもない高いヒット率なのだ。
とはいえ、僕が一方的に芦田君を利用して仕事をしていると思われるのは心外だ。僕がどういう仕事をしているか、芦田君は良く知っている。そして、僕からトレンド情報を仕入れて、自分が先取りした何かが世間でも流行ると、「やっとみんな面白さが分かったのか」などと言いつつニヤリとするのだ。つまり、僕と芦田君は、今でも良いコンビなのだ。
賭には負けたが、僕の心の中ではずっと芦田の風が吹き続けている。
それは、とても愉快なことだ。
(遠野秋彦・作 ©2005 TOHNO, Akihiko)
★★ 遠野秋彦の長編小説はここで買えます。