『機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛』については、以下の2つの感想を書いています。
ここでは、「傷つけられた女性性からの男性性への異議申し立てのドラマ」として映画を解釈しました。
しかし、この解釈は『機動戦士ZガンダムIII 星の鼓動は愛』だけでなく、Zガンダムという作品全体の解釈に有益であると思いつきました。
この解釈が優れているのは、Zガンダムという作品がなぜ「カミーユがジェリドを殴る」という行為によって始まるか、その必然性と真の理由を浮かび上がらせる点にあります。
なぜカミーユはジェリドを殴ったのか §
表面的な出来事をなぞると、以下のようになります。
自分の名前が女性っぽいことにコンプレックスを持っていたカミーユは、ジェリドによって「なんだ男か」と言われ、カッとして殴りかかります。
しかし、いくらコンプレックスがあるからと言って、いきなり殴るというのは度を超えています。ゆえに、ここで感情移入できない視聴者も多かったのだろうと思います。
つまり、このシーンは、上記のような解釈ではあまりに不自然すぎるのです。
さて、上記の映画の感想で書いたように、カミーユは女性性を持つキャラクターであるとしましょう。
すると、上記の出来事には全く違った解釈が可能になります。
ここでは、カミーユが自分に抱くコンプレックスとは、男でありながら強い女性性を内包する自分自身についてのコンプレックスであったと解釈してみましょう。
すると、名前が女のようだ……と言われることに怯える理由は、それがコンプレックスそのものなのではなく、コンプレックスを噴出させるキーワードとして機能するからだと言えます。つまり、自分の名前が嫌いなのは、単に名前が嫌いなのではなく、名前が自分でも制御できないコンプレックスを噴出させてしまうから嫌いだという解釈になります。
ジェリドは何を言ったのか §
ジェリドの言葉は、実は本人も意図しない形で2つの意味を含んでいます。
- カミーユのコンプレックスの発動キーワード
- 女性性への冒涜
最初の意味は既に説明した通りです。
もう1つの意味は、ジェリドの言葉が性差別的なニュアンスを多分に含んでいて、それ自体が女性性に対する冒涜になっているということです。
もちろん、通常であれば、後者の意味は決定的なものになりません。顔をしかめて聞き流せば済む話です。
しかし、ジェリドが暴力的で無邪気な男性性の体現組織たるティターンズの制服を着て、かつ、女性性の体現者であるカミーユからの抗議のパンチを受けたとなると話は別です。
これは、男性性に対する女性性からの宣戦布告とも言うべき状況に進展します。
ここで、問題は既にカミーユのコンプレックスという範疇を超えます。
ジェリドが背負うものは、ティターンズが代表する男性性の原理そのものであり、カミーユが背負うものは、無邪気な男性性によって傷つけられる女性性そのものとなります。この2つの対立は、Zガンダムという作品を通して一貫して繰り返されます。
ちなみに、女性性への冒涜は、カミーユ自身に対する冒涜であるという構造が成り立っていることにも注意が必要です。カミーユが自らの女性性を嫌っていたとしても、女性性への冒涜はカミーユの冒涜として機能します。
クワトロの立場は何か §
クワトロは、傷ついた女性性を癒す者として登場します。
彼はファーストガンダムにおいて、既に傷ついた女性性を持つセイラやララァの癒し手としての立場を見せています。結局女性を癒す側に回れなかったアムロとはかなり違います。
その結果として、クワトロは「女性」と「女性性を持つ男性達」をアーガマに集めることになります。レコア、エマはもちろん、カミーユやブライトも、クワトロが持つある種の吸引力とピッタリはまったからこそ、アーガマに居着いたと言えるかもしれません。
映画第1作はなぜ男の見つめ合いで終わるのか §
映画第1作は、シャアとアムロが見つめ合い、それをカミーユが見ているという構造で終わります。
男と男の見つめ合いと、あくまで傍観者として見ている「私」という構造は全くヤオイ的です。
カミーユが女性性を代表するキャラであれば、ヤオイ的な状況との相性は良いはずです。つまり、男の見つめ合い傍観者として見ている立場が、素直にはまります。
しかし、このシーンは、クワトロがアムロを見つめることによって、クワトロの視線が向いている先が傷ついた女性性ではないことを暗に暴露しています。
クワトロが癒し手ではないという冷酷な可能性がここに予感されます。
映画第2作はなぜハマーン登場で終わるのか §
ハマーンは、クワトロ=シャアによって癒されなかった女です。
クワトロに捨てられた女として異議申し立てる立場のハマーンの登場は、クワトロが癒し手ではないという冷酷な可能性が事実であるという主張を体現します。
つまり、もはやクワトロが女性性を癒す存在だという幻想が維持不可能になります。
もっと具体的に言えば、クワトロに癒しを期待したレコアが、クワトロを捨ててシロッコに走る行為の予兆とも言えます。
映画第3作はなぜシロッコを倒して終わるのか §
クワトロが(そしてシロッコも)癒し手たりえないという事実が暴露されてしまった以上、傷ついた女性性は次々を死を迎えるしかありません。その結果、映画第3作では多くの「死」が描かれます。
この状況に終止符を打つ方法は1つしかありません。
それは、女性性を傷つける原因となる存在の除去です。
無自覚的な女性性への暴力の行使者たるティターンズはコロニーレーザーという武力によって除去されます。
そして、有自覚的な女性性の冒涜者たるシロッコへは、傷つき死んでいった女性性の体現者(エマら)や、カミーユの女性性の支持者達(フォウやカツ)の魂が集まり、カミーユとZガンダムの身体を借りてとどめを刺します。
ここで除去されたものは、実はティターンズとシロッコだけではありません。
実は、最初にジェリドがカミーユを殴った時点で発生した「女性性への冒涜」という大きな潮流が断ち切られたのです。
それは、もはや女性性があからさまに圧倒的な力で傷つけられない時代の到来を意味します。
そしてガンダムZZの時代へ §
少しだけガンダムZZにも考察の足を踏み入れてみます。
ガンダムZZの主人公のジュドーは、健全な男子であり、女性性を担うようなことはありません。そして、ガンダムZZの少女達は、Zガンダムの女性達よりももっと若く、彼女らの女性性は傷ついていません。
しかし、ならばジュドーの男性性は傷ついていないのかというと、それは違います。ジュドーは、リィナの面倒を見て、良い学校に入れてやるという夢があります。それは、強い男性性に基づく義務感と言えます。しかし、それは達成されないどころか、リィナがさらわれるという事態まで引き起こし、ジュドーの男性性は強く傷つけられます。
そう考えれば、Zガンダムが傷ついた女性性のドラマであるとすれば、ガンダムZZは傷ついた男性性のドラマだと見ることができるかもしれません。
(書いているうちに思い出して来ましたが、最初の敵として登場するマシュマー・セロも、傷つけられた男性性の体現者の一人と言えるでしょう。男性性をいいようにハマーンに利用され、彼の心は傷ついていきます)
ハマーン、Zガンダムより残された決着 §
ガンダムZZのドラマは、ジュドーとハマーンの戦いによって決着します。
ここで、ハマーンという女性は、傷ついた女性性を持っていたにも関わらず、カミーユによってその傷は担われていないという状況に注意を払う価値があるでしょう。
つまり、Zガンダムのドラマによって、多くの傷ついた女性性については決着したものの、ハマーンの問題は決着していなかったと言うことです。ハマーンを傷つけたのは、あくまでシャアであって、ティターンズやシロッコではないのです。
そして、傷ついた女性性の体現者たるハマーンは、傷ついた男性性の体現者たるジュドーと対決します。
飛躍した解釈を書くならば、そこでハマーンが期待したのは自らの滅びによる癒しであり、ジュドーは正しくその癒しを与えることによって、自らの男性性の傷を癒そうとした……と考えることができるのかもしれません。
しかし、仮にそれによってジュドーの男性の傷が癒えたとしても、ハマーンを倒したという事実が再びジュドーの男性性に傷を付けた可能性もあり得ます。
いずれにしても、この戦いの後、ジュドーは木星船団に乗り込んでしまい、普通の幸せな生活を送ることはしません。やはり、ジュドーの男性性の傷は癒えなかったのでしょう。それは、妹のリィナが戻ってきた……、というぐらいでは回復できないぐらいの深い傷なのでしょう。いや、むしろリィナが一緒にいればいるほど、ジュドーの傷は深まるのかもしれません。
ご注意 §
いい加減に記憶で書き飛ばしているので、もしかしたら全く違うかもしれません。
けして信じないように!
ちなみに、マシュマー・セロとグレミー・トトをすっかり勘違いしてました。ガンダムZZは本放送以来、1回も見直していないので、記憶などまあこんなものです。
内容も、思いつきをメモっているだけなので、これが正しい解釈である……などとはけして思わないように!