これは、『ZEROの明暗』【暗の章】 ZEROはなぜすぐ飽きが来るのか、その根本原因に切り込む!として書いた【暗の章】と対になる【明の章】です。
【暗の章】では、なぜACE COMBAT ZEROの賞味期限が短いか、その理由について考えてみました。その結果として、私の個人的な結論として、ACE COMBAT ZEROは全面肯定できないという結論に達したわけです。
しかし、それは全面否定ではありません。
実は、特にストーリー面において、非常に秀逸な側面を持っており、これについては非常に高く評価しているという事実があります。
言い換えれば、ACE COMBAT ZEROの結末はハッピーエンドと言えるのか?という問いかけに対する100%の「イエス」だと思うということです。
ここでは、そのように考える理由について書きます。
ACE COMBAT ZEROのストーリーとは何か §
ZEROのストーリーとは、一見してベルカ戦争について描く物語のように見えて、実はそうではありません。主たるテーマは、ベルカ戦争において行われた自国領内で核を起爆させるという狂気の行動の背景にある物語を描くことにあって、その主役はベルカ軍ではなく、革命集団「国境無き世界」であると言えます。
そのことは、最初に提示された「侵略者ベルカに占領されたウスティオを取り戻せ」という主題が、僅か6ミッションで完遂されてしまったことからも分かると思います。つまり、それはこのゲームにあって真の主題ではないということです。
そして、侵略者であったベルカの制圧はMISSION 11「焔」で事実上完了してしまいます。
MISSION 12「臨界点」では、もはやベルカは一体の存在ではなく、ベルカ軍とベルカ軍が撃ち合うような状況が訪れます。ここから、ZEROはその真の凶悪な姿を見せ始めます。
ベルカ、オーシア、サピン、そしてウスティオの傭兵だった「片翼の妖精ピクシー」らが集まって構成される「国境無き世界」が、世界秩序の破壊者として姿を見せます。彼らは、核ミサイル(V2)で既存の国家を破壊し尽くし、国境線を亡き者にすることを目標に掲げる一種の狂信者集団です。
最終的に、主人公サイファーはV2発射による世界滅亡を回避するために、かつての相棒ピクシーと1対1で対決します。V2は発射されてしまいますが、ピクシーを撃墜することで、V2は自爆し、世界は救われます。
「国境無き世界」の特徴とは何か §
組織の壁を越えて仲間が集まり新勢力を打ち立てるというのは、ACE COMBAT 3のウロボロスと共通するモチーフです。そこで、この2つを比較してみましょう。
ウロボロスの目標は、人類のサブリメーション(電脳化)です。肉体を捨て、情報だけの存在となって生きることが素晴らしいことであり、リーダーのディジョンはまさにその理想を実現した存在であると喧伝されます。しかし、その裏側に隠された真実とは、そのような理想論とはかけ離れたものに過ぎませんでした。ディジョンは、自分の肉体を奪い、電脳世界に封じ込めたサイモンを憎んでおり、ウロボロスとは復讐のための方便に過ぎなかったわけです。
「国境無き世界」とウロボロスを比較した場合、以下のような違いを見ることができます。
- ウロボロスには実際にサブリメーションの成功例としてディジョンという人物が存在しており具体的な説得力があったが、「国境無き世界」は国境線を消し去った後のことは次の世代に委ねるというだけで本当に良い時代が訪れれるという具体的な根拠に乏しい
- ウロボロスには非常に人間くさい「復讐」という存在理由が隠されていたが、「国境無き世界」はまさに彼らが主張する通りの理念を実現する集団として集まったように見える (少なくともピクシーにとっては)
- ウロボロスは参加メンバーが新しい時代を生きるための組織だが、「国境無き世界」は参加メンバーが死んで別の未来を生み出す組織であり、殉教的
これを以下のように要約しましょう。
- 「国境無き世界」は根拠のない楽観論に基づき未来形で語る
- 「国境無き世界」は子供っぽい理想論を素直に信じる者達で構成される
- 「国境無き世界」は、死んでも良いと思うほど自らの正義を確信している
これらの主語は、「国境無き世界」から「ピクシー」に置き換えても成立すると思って良いでしょう。
- 「ピクシー」は根拠のない楽観論に基づき未来形で語る
- 「ピクシー」は子供っぽい理想論を素直に信じる
- 「ピクシー」は、死んでも良いと思うほど自らの正義を確信している
サイファーとピクシーのコントラスト §
上記の特徴の全く正反対であるのがサイファーではないかと思います。
- 「サイファー」は語らない。ただ黙々と目の前のミッションをこなしていくだけ
- 「サイファー」は、きれい事よりも傭兵生活と戦闘のリアリズムだけを信じる
- 「サイファー」は、正義よりもミッションを、さらには自分が生き延びることを優先する
これらのサイファーの特徴は、ある意味でゲームの持つシステムがそのように性格付けしていると見ることもできますが、シナリオ的にもこのような特徴は肯定されているように感じられます。
突き詰めていけば、ACE COMBAT ZEROというストーリーは、上記のサイファー的価値観と、ピクシー的価値観の衝突の物語であると言っても良いのではないかと思います。
Web 1.0対Web 2.0 §
4月にWeb 2.0の本を書き下ろして、現在ゲラを見ている段階ですが、この本を書く過程で浮かび上がってきた特徴があります。
- Web 1.0の人たちは未来形で語る。彼らの語る素晴らしい未来は多くの場合根拠がない
- Web 2.0の人たちは現在進行形で語る。あるいは、語らずに実際に動くシステムを見せることでアピールする
このような対比は、Web 2.0を素早く理解するために有益ではないかと思います。Web 2.0とはITバブル崩壊を生き延びたサービスに後付けされた名前であり、Web 1.0はITバブル崩壊を生き延びられなかったサービスを示すとすれば、上記の特徴はその理由を簡潔に要約してくれています。
そして、この2つの対比は、サイファー的価値観とピクシー的価値観の対比とよく似ています。
Web 1.0の人たちが具体的な根拠を欠く素晴らしい未来を語り、批判的な人たちに対して耳を貸さなかったのと、「国境無き世界」の者達が具体的な根拠を欠く素晴らしい未来を語り、いくらPJが「戦争は終わったんだ」と言っても耳を貸さないのは、酷似した特徴であるように見えます。
それに対してWeb 2.0の世界が、まだ見ぬ未来についての能書きを延々と語るよりも、Google Mapsや、Google Suggestのような具体的な動くサービスを黙々と作って提示することと、能書きを語らずひたすらミッションをこなしていくサイファーの態度は似たような印象を感じてしまいます。
実は、Web 1.0の特徴は1996~8年頃から始まる多くの社会的な動きに共通する特徴と言え、Webの世界に限定されずに、幅広く社会的な動きを捉える共通の特徴と見ることもできると思います。
そういう意味で、ピクシー的価値観とは、社会のあちこちによく見られたある種の病理そのものを象徴的な描いたものではないか……という気がします。
そして、そのような価値観は、より健全な価値観(サイファーにも似た)に取って代わられつつあるように感じます。
病理を克服するピクシー §
このゲームを、心理的な病理に過ぎないピクシー的価値観と、健全なサイファー的価値観の激突と見て、健全な側が勝利して終わった……と思うだけではまだ半分です。
なぜACE COMBAT ZEROのストーリーが秀逸なのかといえば、ピクシー自身が病理を克服する過程が描かれているからです。
「国境無き世界」の理想が達成不可能であることは、傭兵経験も豊富なピクシーなら当然気付くでしょう。エリート育ち(?)のウィザード1は気付かないとしても、ピクシーならどこかで感づくでしょう。
しかし、大きな理想と正義を背負って走り出してしまえば、自分で自分を止めることもできないでしょう。「国境無き世界」の理想とは、それほど大きな理想だったはずです。
そこでピクシーが到達するのは、サイファーとの対決です。
MISSION 18「ZERO」において、ピクシーは驚くほどサイファーを挑発しています。それどころか、自分に対して「撃て」とまで言います。
ここでピクシーは、2重の行動を取っていると見ることができます。
1つは、V2をサイファーに撃墜させないために戦う「国境無き世界」の戦士としての行動。
もう1つは、サイファーに自分を倒させることによって、世界を滅ぼす行為を止めて欲しいと願う心から出た行動。
後者の行動は、自分をサイファーに撃墜させようとする発言の他に、自機が落とされるとV2も自爆するというセッティングに見ることができます。
最終的にピクシーが取った行動は、あえて自機の弱点をサイファーに晒すような攻撃方法です。正面からしか攻撃が当たらないと分かっていて、あえて正面からの撃ち合いを望むというのは、本来は非合理的です。しかし、上記のような2重の行動を取っているとすれば話は別です。ピクシーの中の半分は、あえてサイファーに落とされることを望んでいたと思って良いでしょう。
そして、撃墜されることで、ピクシーの病理は決定的に克服されます。
ピクシーは、国境線の意味を見ていたいから……という理由で傭兵を続けています。答など無いかもしれないが、それでも見ていたい……と彼は言います。これは、けして敗者の態度ではありません。むしろ、あるべき精神的な成長を遂げたと言うべきでしょう。見ていたい……というのは、まさに現在進行形の語りであり、Web 2.0的な特徴と重なります。そして、すっきりとした唯一の答が存在しないというのは、人間や社会の普遍的な特徴であって、答があると思い込むよりも遙かに理性的で賢い大人の認識と言えます。
つまり、ピクシーの中には相反する2つの「自分」が存在していたが、サイファーに敗北することによって、子供っぽい肥大した自我をに立脚する誤った「自分」を克服することができたと言えます。
だから、ピクシーはサイファーに、その後であっても戦友、相棒と語りかけることができ、心の底から感謝することができたわけです。
つまり、これはハッピーエンドなのだ §
そのような意味で、ACE COMBAT ZEROとは、まさに2006年に生まれ出て、2006年現在を生きる人々によって受け止められるべきストーリーを備えた作品ではないか……と思うわけです。
ピクシーは病理から解放され、かつての相棒を撃墜にするに至ったサイファーも、病理を克服する手伝いをしたに過ぎないと言えるわけです。
それは同時に、2006年という今を生きる我々に対して、病理は克服できるという前向きなメッセージを投げかけるものです。
つまり、これはハッピーエンドです。
余談・別の角度から見た敗北の意味 §
仮に「社会的ひきもり」という病理が、「僕は強く賢いのに誰もそれを認めてくれない」という子供っぽい思い込みが否定されることからの逃避行動によるものだとすれば、実は圧倒的な力によって敗北を味わうというのは、病理を克服する第1歩と位置づけることができます。
そしてピクシーのように、強く万能感に満ち、PJらの他人に教え諭すことさえできるという思い上がった人格は、ある種の子供っぽい心理、あるいはある種の病理に捉えられやすいと言えます。
このように考えれば、ピクシーの行動は一種変形した「社会的ひきもり」と見ることができます。彼は自分の家ではなく、相互に互いの万能感を承認し合って、現実に触れる痛みから逃れ続ける集団に身を投じたわけです。「国境のない世界を作る」という理念は、それが正しいから掲げられたというよりも、万能感を相互承認するための手段として掲げられたものであるように見えます。
実際、MISSION 10「B7R制空戦」での会話を聞く限り、ウィザード1とピクシーの間には、かなり意見の隔たりがあったようにも見受けられます。しかし、その差異を問題にすることなく、MISSION 12「臨界点」においてピクシーはウィザード1の誘いに乗って去ってしまいます。これは、国境無き世界の理念が、実は目標ではなく手段に過ぎないことを暗に示します。
このような現象は、現実世界でも割とよく見られます。たとえば、反マイクロソフトであるというだけで、本来相容れない理念を持っているはずの企業、組織、運動などが手を組むような事件は歴史的にいくつもあったものです。それらの多くは、当然のごとく予想されたように、良い結果を残してはいません。
さて、このように考えたとき、サイファーがピクシーに対して行ったことは何でしょうか?
それは、ピクシーが逃避先としていた集団を殲滅し、彼の逃げ場を奪った上でピクシー機を撃墜することで、もはや言い逃れのできない決定的な敗北を味わわせたことだと言えます。これは、「圧倒的な力によって敗北を味わうことが病理を克服する第1歩」だとすれば、まさにその第1歩に当たるものと言えます。
最後に1つだけ強調して書いておきましょう。
圧倒的な敗北を味わうことができたピクシーは幸せです。
そして、圧倒的な敗北を味あわせることで相棒の病理を克服させることができたサイファーも幸せ者です。
いや本当に。
だから、これはハッピーエンドなのです。