YouTubeという大規模投稿型動画サイトが出現したことの功罪の種類は多いでしょう。人それぞれに様々な功、そして罪を語ると思います。
全く個人的に、私はYouTubeがもたらした最大の功は、MAD映像を大量に集積し、閲覧可能にしたことだと捉えています。
ここでは、それがいかに画期的であるかを書き記してみたいと思います。
MAD映像とは何か? §
ここでいうMAD映像とはいったい何でしょうか?
ここでは、以下のように定義づけたいと思います。
1つあるいは複数の作品(特にアニメ、特撮等)の映像や音声の素材(部分的に新規作成される場合もある)を編集し、あたかも最初から1つの作品であるかのように作り出された動画
具体的には、例を見ると分かりやすいでしょう。
以下は、「機動武闘伝Gガンダム」と「北斗の拳」の映像を編集し、あたかも「機動武闘伝Gガンダム」の主人公ドモン・カッシュと「北斗の拳」の主人ケンシロウが戦っているかのように見える作品を構成した事例です。
(MAD anime)gundam(ガンダム) VS kensirou(北斗の拳 ケンシロウ) §
(画像公開ポリシー)
MAD映像の魅力 §
MAD映像の魅力とは、本来世の中に存在しないはずのものを、実際に作り出してしまう点にあります。あまりにも無関係であるはずのものが、あたかも1つの作品の中で同居しているように見えるというのは、ある種の常識を壊して新しい刺激そのものと言えます。
たとえば、権利関係や作品の世界観などから1つの作品上で絶対に競演するはずがないキャラクターを競演させたり、全く別個の作品の主題歌に乗せて心地よい映像を展開させるなど、社会のルールやその他の制約に従う限り、絶対にあり得ない出来事であると言えます。それを、ファン側の立場が作り出してしまったものがMAD映像ということです。
MAD映像を作ることの難しさ §
しかし、MAD映像を作成することは、けして楽なことではありません。そのことは、1980年代の遠い昔にMAD映像作りを志して編集機能を持ったビデオデッキ(SONY SL-HF900 ベータプロ)を購入しながらあっさり挫折した私であればこそ、明確に説明することができます。
たとえば、上記のドモンとケンシロウが戦う動画は、両者が同じようなノリで戦うキャラクターであるという知識を持っていれば、それだけで容易に作れるように思えるかもしれません。しかし、それは正しい認識ではありません。なぜなら、個々の作品の個々のシーン、カットは、それぞれの作品を最大限盛り上げるために作られたものであって、MAD映像用の素材として作成されたものではないからです。たとえば、映像を編集して別個の作品のキャラクターに会話させようとした時、キャラクターの顔や身体の向き、背景、一緒に見えてしまう他のキャラクターの存在などによって、どうしても上手く噛み合わないケースが大多数と思って良いと思います。上記のドモンとケンシロウが戦う動画は、奇跡的に両者がほとんど正面を向いて相手と喋るカットが多数あり、かつ映像表現も似通っているために成立したものだと言えます。
そして、単に素材があるだけでMAD映像は成立しません。それらの素材を、MAD映像側のリズムやテンポに落とし込んで上手く配列し、意図的な演出によって筋の通った作品として仕上げねばなりません。
それは、紛れもなくある種の高度なクリエイションであり、そう簡単に誰でも真似ができることではないと言えます。その意味で、真に優れたMAD映像作家は、ある種のクリエイターとして尊敬すべき存在と言って良いと思います。
MAD映像は世の中を流通しない §
しかし、そのようにして作成されたMAD映像は、ほとんど世の中を流通しません。
その理由は簡単で、たいていの場合互いに相容れない権利関係を持ってしまうからです。たとえば、1つの作品を巡る同人誌作品を集めて商業出版物として売るというビジネスは成立しますが、ライバル他社のキャラクターと自社のキャラクターが競演するような作品を世に送り出すことを肯定するビジネスは、おそらくほとんど存在し得ないはずです。
強いて言えば、商業ベースに乗ることがない同人の世界に出現することがある程度……でしょうか。
つまり、世の中にMAD映像の安定した居場所はないのです。
YouTubeというブレークスルー §
YouTubeには様々な著作物が掲載され、そして著作権者からのクレームで削除されています。ここで、商業的著作物を含む映像でありながら、クレームによって削除されていないものはどう解釈したら良いのでしょうか? (クレームによって削除されるまでの猶予時間に存在するものではなく、長期的に削除されないものについて述べています)
このような動画は、「常にクレームによって削除しうる可能性を留保しつつ」そして「暗黙的に存在が許容された」と考えて良いと思います。
なぜ自らが権利を持つ著作物がYouTubeに掲載され続けることを暗黙的にでも許容するのかと言えば、それが著作権ビジネス的にプラスになると考えられている……という可能性があります。たとえば、悪い画質でYouTubeに存在する部分的な動画を見て、「もっと綺麗に見たい」あるいは「最初から最後まできちんと見たい」という欲求を持たせることができれば、それはビジネスの売り上げアップにつながります。つまり、全てを囲い込むよりも、エサを蒔く方が儲かるという考え方です。
ここでエサとして存在を許容されたグレーゾーンの中に、まさにMAD映像は紛れ込むように存在を(暗黙的に)許容されていると考えることができると思います。
このような形態は、これまではあまり成立したことが無く、もしかしたらYouTubeという存在によって初めて明確に稼働するようになったと言えるのかもしれません。
ならばどうする!? §
MAD映像を楽しむ行為が、たとえ「常にクレームによって削除しうる可能性」と抱き合わせであろうと、ビジネスのためのエサであるグレーゾーンの存在であろうと、実行可能になったというのは画期的なことだと感じます。
私としては、著作物がより売れるチャンスを作り出すというエサとしての効能を肯定した上で更にそれを支援するように著作物もセットで紹介するようにして、MAD映像を紹介するという企画をやって見たくなりました。
そのようなわけで、不定期連載として「MAD映像の魅力」というシリーズを書いてみたいと思います。