また冬が来る。
狼はそれを思うだけで身体が震えた。
寒い冬。
雪に覆われる冬。
獲物が少なく飢える冬。
狼の黒い体毛が雪上で目立って狩りがやりにくい冬。
特に、群れから離れた一匹狼にはとても辛い季節だ。
未来のことが不安でたまらず、狼は不安から逃げるために草原でウサギを仕留めて食べた。
腹が膨れると不安が和らいだ。
本当は和らいではいけないはずだ。冬は確実に来るのだから危機感を持たねばならない。だが、満腹では危機感が維持できなかった。
満足感に満たされた狼が森の中を歩いていると、人間が使う何かの機械が落ちていた。
好奇心を発揮して狼はその機械に近づいてみた。
「もうし、そこの狼さん」と機械は突然喋った。
「なんだ、最近の機械は喋るのか」と狼は答えた。「で、何の用だ。食い物にならないおまえのような機械には興味もないのだ」
「そんなことをおっしゃらずに。話を聞いてくださいませ」
「俺は気が短い。言うなら早くしろ」
「私はヒーターと言います。人間が使う暖房器具です」
「暖房器具? 暖かいのか?」
「はい、それはもう、冬の寒さを感じないぐらいの暖かさを人間に与えるものですから」
それを聞いた狼は、ハッと思った。人間はいいな。狼もヒーターが使えれば良いのに。
「しかし、この場所に放置されると壊れてしまいます」とヒーターは言った。
「なぜだ?」
「冬になるとここに雪が積もります。そして春になると雪が溶けます。雪が溶けると水になります。水に濡れると機械は錆びてしまうのです」
「そうか。錆びるのか」
「そうです。だからお助け下さい。私をあなたの身体にくくりつけて、いつでも一緒に連れて行ってください」
「なぜ、この俺様がそんなことを……」
「もちろん、お礼はいたします。いつまでも狼さんの身体をこのヒーターで暖めてあげます」
「ほ、本当か? 人間ではなく狼にも使えるのか?」
「本当です。操作はとても簡単。ボタンを押すだけでスイッチが入ります。実際、飼い犬が自分でスイッチを入れていたこともあるぐらいですから、もっと賢い狼さんなら問題ないでしょう」
「よし。いいだろう。俺の身体にくくりつけてやる」
「その代わり、一生私を離さないでくださいませ。もうそこらに放置されて朽ちていくのはイヤなのです」
「交換条件というわけか。いいだろう」
そして、狼はヒーターを身体にくくりつけた。
「スイッチはどこだ?」
「ここです。この丸い飛び出た赤いところです」
「よし、入れるぞ」
狼は飛び出しを押した。
しかし、ヒーターは冷たいままだった。
「おい、暖かくないぞ」と狼はうなった。
「もうちょっとだけお待ちを」とヒーターは落ち着いて答えた。
しばらく待つと、狼の身体が暖かさに包まれた。
狼は感激した。
もうすぐ冬だというのに、まるで夏場のような暖かさだ。
「これは最高だ。約束してやる。永遠におまえはおれと一緒だ」
そして雪が降り、本格的な冬になった。
だが、ヒーターのおかげで寒さとは無縁の狼は、元気に狩りを行い、飢えることもなかった。
まさに狼は幸せの絶頂だった。
何と素晴らしいヒーターだ。
しかし、徐々に春の便りが目に付くようになると狼はこれから来る春、そして夏のことを考えざるを得なかった。
ヒーターを身体に付けたまま夏場の暑さを乗り切れるだろうか。気温だけでも耐え難いというのに、更にヒーターの熱が加わったら暑さで死ぬかもしれない。
しかし、ヒーターとは一生離さないという約束を交わしてしまった。
一生ということは夏も含めてということだ。
狼は、そのことを何回も繰り返し考えた。
いっそ、ヒーターを捨ててしまおうか。そうすれば、夏場を乗り切れるはずだ。
もちろん、狼はそのことをヒーターには言わなかった。言って警戒されては困るからだ。
口に出せない悩みを抱えて、狼はノイローゼになってしまった。
結局、狼はヒーターを捨てる勇気が持てなかった。その代わり、狼はできるだけ約束を守る誠実な人でありたいと思った。
だから、ヒーターを捨てることはなく、ずっと身につけて生活を続けた。
だが、それも春から夏に変わろうかというある日に限界に達した。これ以上ヒーターを身につけていたら熱で死ぬ……。
狼は、ついに行動に出た。
ヒーターが寝ている隙に、ヒーターをそっと森の小道の脇に置き、そのまま走り去ってしまったのだ。
暑さから解放され、まさに狼は幸せの絶頂だった。
「おや珍しい。こんなところにヒーターが落ちている」という声で、ヒーターは目覚めた。
ヒーターを見下ろしていたのは狩人だった。
「こんにちは狩人さん。私、また捨てられてしまったようね」
「ところで、このあたりで群れからはぐれた一匹狼を見かけなかったかね?」
「ついさっきまで一緒にいました。私を捨てて立ち去ったようです」
「ほう。狼がヒーターを? それはなぜだね?」
「寒がりの狼さんだったから……。ずっと喜んでくれていましたよ。真冬でも暖かいと言って」
「それなのに、どうして捨てられたのかね?」
「さあ……」ヒーターは首をかしげた。
「おや、もしかして……」狩人はヒーターのスイッチを調べました。「オンのままになっているぞ」
「え、そんな……」
「もしかして狼の奴は、ヒーターのスイッチの切り方が分からなくて、暑さに耐えかねておまえを捨てたのかな?」
「そういえば私、スイッチの切り方を狼さんに教えたかしら?」
「事情は分かった。ということは、この近くに狼がいるわけだな。さっそく探して仕留めるとしよう」
「あの、狩人さん。私を連れていてくださいまし。このままここに放置されたら私……」
「悪いな。今、重い荷物を抱え込む訳には行かないのだ」
そのまま狩人は立ち去り、2度とヒーターのところに戻ることはなかった。
雨期が訪れ、森に放置されたヒーターにも雨が降り注いだ。ヒーターは錆び付き、暖かさを提供する機能を失った。
やがて秋口になると、あの狼がヒーターを発見した。しかしスイッチを押しても暖かくならなかった。いや、すぐは暖かくならないのだと狼は思い出した。狼はそのヒーターを身体にくくり付けて歩き始めた。
(遠野秋彦・作 ©2007 TOHNO, Akihiko)
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