最近のアニメのかなりの割合を占める問題とは、あえて乱暴に要約してしまうと「心を描けていない」と言い切ることが出来ます。
「心を描く」というのは、他のどのような描写よりも重要です。なぜかといえば、作品に感情移入し、共感してもらうためには、「感情」「共感」の源泉である「心」を経由するしかないからです。
それにも関わらず「心が描けていない作品」がいくつも生まれてしまうのはなぜでしょうか? そして、「心が描けていない作品」が受け入れられてしまう理由は何でしょうか?
その理由は、おそらく現在のオタク文化が持つ病理そのものにあるのだろうと思います。つまり、「僕を認めてくれない圧倒的な存在感を持つ社会という存在からの逃避」です。社会が「日本が世界に誇る文化」と認めたオタク文化の担い手になることを通じて、社会から認められた存在になるという幻想を抱き、そして現実の社会から逃避するわけです。
そのように逃避したオタクの一部は、自らオタク文化に担い手になろうとアニメの作り手になろうとします。そこに待っているのは、そういうオタク達を相手にビジネスを行うスクール商法です。彼らは、儲けさせてくれる存在であるがゆえに歓迎され、そして一定の年限で社会に送り出されます。
社会に送り出されれば、彼らは仕事をして稼がなければなりません。従って、作り出されるアニメの数は増えることになります。そして、年期の入ったベテラン抜きでこのような者達が作るアニメは、「社会から認められたオタク文化」という幻想に裏打ちされた甘さと、「現実の社会からの逃避した内容」という側面を必然的に持ちます。それは、ある種の心を描くことを放棄するのと同義です。
そして、アニメを見るオタク達も、同様に「現実の社会から逃避した者達」であるため、現実の社会との軋轢を描く作品は理解できないし、そのような描写からは逃れたいと感じることになります。必然的に、心を描けていない作品の方が支持される……という現象が生じます。
漠然とした印象から言えば、おそらくこれが2005年ぐらいまでの状況です。
2006年ぐらいから少しずつムードが変わり始めたのかもしれません。
そして、2007年に入ってから、はっきりと違う方向性が出てきたようにも感じられます。2007年4月のTVアニメ新番組第1話を地上波VHFに限って一通り見てみましたが、それらには「心を描かねばならない……」という機運の萌芽が見られるような気がしました。まだまだ、何を描けば良いのか分かっておらず、極めて未熟というケースも多いものの、現実から逃避するだけでは作品は成立しない……ということを、若いアニメスタッフ達が理解し始めたような印象を受けました。(あくまで個人的な印象であって事実であるか否かは分かりませんが。
そして、もし彼らが好ましい方向へ進み始めたのなら、もう私は見守る必要がないな……という気がしました。同時に、未熟な彼らが成長していく過程を、逐一見届ける必要もありません。それは私の仕事ではないでしょう。
……とまあそれは余談です。
長い前振りは終わります。
心を描く作品としての「怪物王女」と「おおきく振りかぶって」 §
奇しくもTBSで連続して放映されている「怪物王女」と「おおきく振りかぶって」は、どちらも非常に優れた心のドラマです。
ある意味、こういう優れた作品が平然と出てくるからこそ、アニメ感想家を続ける意味が無くなったとも言えます。容易に優れた作品が存在すると予測できるジャンルは、相対的に面白みに欠けるとも言えるのです。
それはさておき。
怪物王女の姫は心のドラマのヒーローである §
怪物王女は、登場人物の一人一人が別の心を持っていて、コミュニケーションが必ずしも成立していない状況を描きます。僕の私の心をありのまま分かってくれない他者のドラマと言っても良いでしょう。たとえば、姫はメイドに対して「お嬢様」と呼ぶなと命令しているのに、それが叶えられることはありません。また、機械人形の従者であるフランドルは、姫が望む部下の増員を達成すべく気を使って素材となる死体を持ってきますが、それは猫であったりネズミであったりします。誠意はあっても、意図はまったく理解されていません。
そういう軋轢とストレスの中で、相手と折り合って、相手の魅力や価値を承認し、上手くやっていくのが「社会」であり、そこで揺れ動く気持ちを描くのが「心のドラマ」といえます。それを通して感情移入することさえできれば、「既に死んだ主人公が姫によって命を吹き込まれた」というシュールな状況を「私のこと」であるかのように身近にリアリティを持って感じられるわけです。
そして、このような軋轢の中で、この姫は「ふふん」と微笑みを浮かべ、相手の心を鷲づかみ、自分を殺そうとする相手にすら逆襲し、自分の信念を貫徹します。つまり、それができる者こそが、心のドラマにおけるヒーローです。「現実の社会との軋轢から目を背けて、無かったことにしてしまった者達」を除けば、このような人物からヒーローの魅力を感じることができるでしょう。なぜならそれは「そうありたいと願いつつ、自分が必ずしもうまくそうなれていない人物像」であるからです。
おおきく振りかぶっては全員が心の壁を乗り越えるドラマである §
一方で、おおきく振りかぶって(略しておお振り)は、強い心を持つヒーローを描く作品ではありません。
むしろ、乗り越えられない心の問題を抱えた者達が寄り集まることによって、助け合って乗り越えていく作品という側面を持ちます。
まず目に付くのは、主人公の投手、三橋君の持つ極めて特殊な心理状況です。彼は、中学時代に、親のコネでずっとエースを続けてきたという負い目があります。しかし、彼には何が何でも投手をやりたい、マウンドを降りたくないという強い気持ちがあり、しかもそれに値する努力をずっと続けてきた実績もあります。しかし、彼には全く自信がありません。この三橋君の面白さは、マウンドを降りたくないという強い気持ちと、全くの自信の無さという2つの相反する気持ちに、自分自身が引き裂かれているところにあります。このような屈折したキャラクターは、おそらく「ツンデレ」に代表される単純なキャラクター類型への分類ができません。そういう分類できないような屈折した「心」は、実は珍しいものではありません。であるからこそ、僕らは三橋君のような屈折したキャラクターにこそ、感情移入ができると言えます。
しかし、本当の意味でこの作品で面白いのは三橋君よりも捕手の阿部君です。彼は投手不信でありながら、三橋君の可能性と実力を見抜き、彼をエースにしようとします。彼も、三橋君のおどおどした卑屈な態度は大嫌いでありながら、彼とは信頼関係で結ばれたバッテリーになろうとします。ここにも強烈な心の屈折があります。けして単純には割り切れません。しかし、「嫌いでも価値や魅力を感じて惹き付けられる」というのは現実でもしばしばあることです。それは、筋が通らず屈折しているかもしれませんが、それでも実際に起こるのです。だからこそ、僕らは筋が通ったキャラクターよりも、筋の通らない阿部君に感情移入できると言えます。
更に、女性監督も追求すると面白い心のドラマがありそうですが、まだあまり深く描写されていないので割愛します。
で、結論なのだが…… §
こういう良い心のドラマは、ただ単に眺めて味合うに限ります。
理屈をこねてどうこう論じるよりも、ただ眺めて味わうだけです。
作り手は、そのようにして作品が見られることを誇りに思って良いと思います。