世の中には死亡フラグという言葉がありますが、私はこれが大嫌いです。フィクション上の問題とは言え、人の生き死にを「フラグ」にたとえるなどは、あまりにも不謹慎でありすぎます。
たとえば、結婚の約束をしたら死ぬ……などということが、お約束やパターンであっても良いわけがありません。
しかも、リアリティがありません。そのような約束が、常に死に至るわけではありません。そのようなパターンは、ある種の幻想上の存在であって、現実はあり得ないのです。
そういう意味でACE COMBAT ZEROのシナリオ上の最大の問題は、まさにPJが「結婚の約束」というあまりにお約束な死亡フラグを経由して死に至った点です。
それに対して、ほとんど死を予感させる台詞抜きで殉職したACE COMBAT 5のチョッパーはリアリティを感じさせました。戦争中の死とは、そうそう「事前に予感可能なもの」ではないはずです。
シャムロックは死ななかった §
ACE COMBAT 6で、主人公に家族と会ってくれと言い、再会を楽しみにして、そして妻子の死を確認して落胆したシャムロックは、死亡フラフが立ちまくりという印象を受けました。その上、氷上要塞に無謀な突入まで行い、墜落します。
ああ、これは死んだかな……と最初は思いました。
しかし、エンディングで車椅子に乗った元気なシャムロックが登場したのを見て、何かこう、胸につかえたものが取れたような爽快感を感じました。苦難の挫折から立ち直るからこそ、それは価値ある物語たりえると思います。
僚機の気持ち良さの問題 §
ACE COMBAT ZEROを飛ぶ際の問題の1つは、やはり僚機のPIXYとPJが安心して一緒に飛べる存在ではない点でしょう。PIXYは裏切るし、PJは殉職します。
ちなみに、なかなか追いついてこないPIXYと、なかなか離陸してこないシャムロックは似ているように見えますが、最終的に裏切ることもなければ殉職することもないという意味で決定的に異なります。
つまり、シャムロックを僚機にして飛ぶことは、PIXYやPJと飛ぶよりも、ずっと安心であり、気持ち良く飛べるわけです。
この点は、ACE COMBAT 6の長所だと思います。