イノセン・テイセスの名称が公式に公開されたのは、おそらく公式サイトが更新された2008年6月13日です。しかし、ニュースサイト(GAME WATCH)で取り上げられたのは2008年6月19日となります。
それを今日になって見ている私がいるわけです。
屈託のない戦う可愛い少女 §
これらを通して見られる作品の印象は、以下の特徴を持ちます。
- プレイヤー=主人公から見て格下の可愛い少女が出てくる
- 少女を僚機として飛び、飛ぶことの素晴らしさを教えるらしい
- もちろん自分も少女も敵を倒す「戦い」の気持ちよさがある
つまり、オタク好みの戦う美少女ゲームに見えます。
よくあるパターンそのものです。
屈折や汚いことなど、どこにも無いように見えます。
ACE COMBATシリーズと屈折 §
少し回り道になりますが、ACE COMBATシリーズと屈折の歴史を振り返ります。
ストーリー性が希薄で純粋に「戦闘」のみが問題とされるACE COMBAT 2までの作品においては、ストーリーにこれといって屈折は入り込んでいません。
しかし、ACE COMBAT 3になってから、屈折が色濃く作中に入り込んできます。この物語で起こるディジョンのクーデターにせよ、パークのクラークソン殺しにせよ、あるいは主人公を背後から動かす原動力にせよ、全てが「屈折した心」によるものです。プレイヤーは屈折した心の海を泳ぎ渡るようなものです。
この状況は、ACE COMBAT 04になって一見して沈静化するように見えます。プレイヤーは「屈折した心」とは無縁に、ただの軍人として戦うだけです。ところが、プレイヤーの戦いと並行して描かれる「黄色の13」と少年の物語は、まさに「屈折した心」の物語そのものです。「黄色の13」は敵であり憎む対象であり恋敵でありながら敬愛してしまう少年の心情はとても屈折しています。そして、最後の最後でその心情はプレイヤーに叩き付けられます。
ACE COMBAT 5は、プレイヤー自身が「疫病神」とののしられ、「スパイ容疑者」扱いされながら飛ばねばなりません。
ACE COMBAT ZEROになると、プレイヤーは僚機から裏切られます。敵である「国境無き世界」も屈折の固まりのような存在です。
このような傾向を見る限り、ACE COMBATシリーズと屈折は密接不可分であり、単に女の子と一緒に敵を倒して気持ちいい、といったゲームなどあり得ないようにも思えます。
しかし、実際にはACE COMBAT Xから6へと、驚くほど屈折のない物語が展開します。Xには敵にも味方にも、心を云々するほどのストーリーは存在せず、6では妻子を失ったシャムロックの屈折が物語の方向性をねじ曲げていくかと思いきや、結局は曲がりません。シャムロックが、戦争そのものを憎悪して第3勢力に寝返ってしまうような展開は無いのです。
このように考えると、Project Acesの作品は明らかに「屈折しない」ストーリーを新世代のスタンダードに据えて舵を切ったかのように見えます。とすれば、イノセン・テイセスも「屈折しない」作品になることが予想され、上記サイトの印象はそれを裏付けます。
森博嗣や押井守はそれを喜ぶか? §
それにも関わらず、新世代路線を踏襲しない可能性があると考える理由は、Project Acesの外部にあります。イノセン・テイセスは原作小説の作者である森博嗣と、映画版の監督である押井守の好意的支持無くて、このゲームを作ることができないのです。
それゆえに、この2名の傾向は無視できません。そして、この2名は明らかに「女の子と一緒に敵を倒して気持ちいい」だけの作品など許容できるはずがありません。
より正確に言うならば、森博嗣原作の「スカイ・クロラ」とは「飛び」そして「戦う」ことの気持ちよさを描いた作品ではありますが、気持ちよいことと純粋無垢に肯定して良いこととは別の話であることが明確に示されています。つまり、そこにはある種の屈折があります。
そのような背景から考えると屈折のない作品などが「スカイ・クロラ」の名を冠して発売されることが許されないとしても、何ら不思議には思えません。逆に、「女の子と一緒に敵を倒して気持ちいい」という通俗的ゲームという「見かけ」を示しつつ、そう思って遊び始めた者達に何か重い屈折を不意打ち的に投げつけてみせる作品こそ、この2名の好みに合うかもしれないとすら考えてしまいます。
全ては仮定の話 §
以上は全て表に出てきた情報から推測しただけのことで、実際のところは何も分かりません。
ただ1つだけ分かっていることは、ストーリー面がどのような構成になるにせよ、飛ぶことそれ自体は純粋に爽快であり、その爽快感さえあればイノセン・テイセスは遊ぶに足る作品になるだろう……ということです。
おそらくは、それこそが「スカイ・クロラ」のテーマ……かもしれないと思います。