東京荏原都市物語資料館さんが下北沢X物語(1258)~64年目に日の目をみた疎開児童愛唱歌4~等で進めている、思い出深い半ば失われた学校関連の歌の話題を見ていて、急に思い出した話です。
高井戸第三小学校は玉川上水のすぐ脇にあります。厳密には最初から隣接していたわけではありませんが、極めて近かったことは間違いありません。そして、校歌の歌い出しは「桜花咲く上水の 清き流れともろともに」です。
しかし、私が在学していた時代には、この校歌はほとんど歌われず、その代りに第2校歌というものがあって歌われていました。別の校歌が存在した理由はおそらく以下のようなことでしょう。
- 文語調で子供には意味がさっぱり分からない
- その上、現存しない「上水」や「清き流れ」を歌っていては、実際にある光景を通して校歌を理解することすらできない
ちなみに、うろ覚えですが第2校歌でも上水のことは過去形で歌われていて、けして無かったことにされたわけではありません。そして、口語で分かりやすく「綺麗な水が流れていた」と過去形で語られる歌は意味がすんなりと分かったのも事実です。
しかし、どうもその後、この第2校歌は完全に無かったことにされているようで、その後は古い方の校歌が歌われているようです。
あの第2校歌はどのような経緯で生まれ、どのような受け止められ方をして、どのように消えてしまったのか。
昭和39年(1964)、東京オリンピックの前後に発生した街の景観の劇的な変化から校歌の変化も自然な選択として受容されたのか。そして、昭和45年(1970)大阪万博EXPO'70あたりで急激に変化がスローダウンして安定期に入った結果として、それまで顧みられなかった過去が突如重要視されるべきものとして浮上してきたのか。
今のところ私がそれを追求する意思はありませんが、気になるのも事実です。
いずれにせよ、昭和39年生まれとしては自分の生い立ち、人生と直結するかもしれない問題です。
位置関係 §
学校敷地の下に見える左右に延びる公園の帯が玉川上水の跡地です。プール、体育館のある下側は後から拡張された土地であるらしく、古い地図ではそこは学校の敷地に含まれません。つまり、玉川上水に接してはいませんでした。