「全住宅案内地図帳 杉並区版 昭和44年度版」を見ていて、浜田山方面に養魚場を発見しました。神田川と永福通りの交点にあった有名な武蔵野養魚場とは別のものです。武蔵野養魚場そのものはこの地図には掲載されていません。既に無くなって住宅地に変った後のようです。その後、さらに北沢川沿いのもう1つ養魚場を発見。その後、意識的に探したところ、井の頭線と神田川の交点近くにももう1つ発見できました。既に無い武蔵野養魚場を含めれば4つも見つかったことになり、これはかなり「多い」と言えます。もちろん、養魚場の廃業期の地図であり、既に廃業済みの他の業者が存在する可能性もあり得ますから、それを踏まえればもっと多かった可能性も考えられます。
これは少し意外です。
以下、簡単にまとめます。
安藤養魚場 §
鎌倉街道と神田川の交点(鎌倉橋)の北東側にあります。住宅街の娯楽施設という意味での「釣り堀」としての営業も行っているように読み取れます。
ここには更にプールも併設されていたようです。そこで思い出すのは、子供の頃に何かの企業の保養所(?)のプールを利用させてもらったことがあることです。確か、場所はこのあたりだったと思います。このプールのことかは分かりませんが、可能性としてはありそうです。
井の頭線と神田川の交点付近 §
永福町駅と明大前駅の間、井の頭線と神田川の交点より南西方向です。
固有名は書かれていませんが、明確に「養魚場」と読み取れます。
北沢川に挟まれた養魚池 §
甲州街道の北側です。北沢川が甲州街道を超える少し手前にあたります。北沢川の2本の流路に挟まれた位置にあります。
地図上では「養魚場」ではなく「養魚池」と記されています。
この養魚池が驚きであるのは、実は2009/06/19現在のGoogle Mapsの航空写真にも規模は縮小しているものの、まだ池が見られることです。
大きな地図で見る
更新されて無くなるかもしれないので、念のためキャプチャしたスナップショットの画像を付けておきます。
追記: ここは株式会社日本観賞魚センターらしいことが分かりました。昭文社東京都区分地図「杉並区」1:12,000 (2008年4版12刷)に「観賞魚センター」という名称が記載されていて気付きました。
考察 §
少なくとも以下のことは言えます。
- 玉川上水の水を前提とした養魚場は確認できない。神田川ないし玉川上水の分水だけである
- 養魚場はある程度の質と量を持った淡水の確保が不可欠であり、河川水路に沿って作られる必然性がある
- しかし、上水用の水は使えないと考えられる
発展課題 §
- 下高井戸周辺の水田は自家消費用の米しか作れず、主要な商品は野菜であったらしい。とすれば、水に近い土地で利益を生む手段として、水田よりも淡水魚の養殖の方が優れていた、あるいは優れるかもしれないという希望を意識させた可能性はあるだろうか?
- 神田川の水質悪化や周辺の住宅地化が養魚場ビジネスへの逆風になった可能性がある。しかし、最終的には神田川の改修工事がそれを不可能化して消滅させたと考えられるか?
- 上の項目が是だとすると、現在も小規模ながら池が残る「北沢川に挟まれた養魚池」は、神田川流域ではないために「改修工事による不可能化」という決定的破滅を回避できたと考えられるか?
- しかし玉川上水への通水停止は、暗渠化されても水路として残存する北沢川への依存を不可能化したと考えられる。これにより養魚池ビジネスはどう変化したのか?
- 今回は下高井戸周辺しか調べていないが、他の地域はどうだろうか? 神田川の更に上流あるいは下流部、善福寺川、妙正寺川、北沢川下流部、烏山川、三田用水、品川用水、六郷用水、二ヶ領用水等々ではどうだろうか? (ここは私の領域ではないので読んでいる人に任せます)
感想 §
魚の養殖というのは、どこか遠い地域の話題であって、まさか下高井戸の話題として取り上げることになるとは思ってもいませんでした。武蔵野養魚場は特殊な例外だと思っていました。やはり用もないのに地図は見るべきです。予想もしない発見をくれます。
追記・三田用水の場合 §
きむらたかし@三田用水さんよりご教示いただきました。ありがとうございます。
三田用水に関しては、いわゆる三田用水事件での、裁判所に提出した用水組合の「言い分」として、以下のようなものがあります。
#Quote
■いわゆる「三田用水事件」第1審判決中の
原告である三田用水普通水利組合(以下「組合」)の「言い分」
東京地方裁判所昭和27年(ワ)第5135五号
土地所有権確認請求事件
原告 三田用水普通水利組合
被告 国・東京都
昭和36年10月24日判決
:
第二、原告の請求原因
一、第一次の請求
:
(原告[註:組合。以下同じ]が取得した前記諸権利の行使状況)
(七)、原告は徳川時代には本件用水の大部分をかんがい用に使用し、これに附随して極くまれに水車用、酒造用、染色用その他の工業用にも使用してきた。そして明治、大正と時代が移るにしたがつて、原告組合の地域内の田畑が減少した結果かんがいの用途も次第に減少し、他面雑用、工業用としての使用が増加した。昭和初期になるとかんがいの用途は全くなくなり、原告はもつぱら本件用水を雑用(養魚、庭園、プール、浴場等)、工業用(和洋酒醸造、洗場、水車、染色、漉紙等)としてのみ第三者に使用させるようになつた。…
:
#UnQuote
当の本人(?)の言い分でもあり、三田用水組合が、養魚を目的とする利用者から、水代を取っていたことは、まずまちがいないとは思います。
ただし、大正~昭和初めの1万分の1(白金~古川は、2万5000分の1ですが)をみるかぎり、本流はもちろんとして、分水が通っていたと思われる範囲には、神田川あたりのような養魚場養魚場した「四角い池」は見当たりません。
あるいは、自然の池を利用したものなのか、ごくごく小規模だったという可能性もありますが、なかなか、具体的な場所を特定するのは難しいかと思われます。