2009年09月23日
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続・同人誌「崖の上のネギま?」で考える・赤松健の正体は「アニメの人」ではないという仮説

Written By: 川俣 晶連絡先

 「同人誌「崖の上のネギま?」で考える・赤松健の正体は「漫画読み」の「第1世代オタク」であるという仮説」について黒猫さんより以下のようなメッセージを頂きました。(抜粋)

記事、面白い着眼点で楽しく読ませていただきました。

赤松先生は「アニメの人」と思わせるような、側面も持っているので僕は「マンガとアニメの両属性持ち」だと思ってます。

某ライターさんによると、赤松先生の平均睡眠時間は執筆時は4時間程度らしいので、アニメを見る時間がないだけかな?と思ってます。

中大時代はアニメ製作にハマっていたみたいですし

 まず、以上の解釈には錯誤が1つ含まれていると考えられます。また、もう少し別の結論も導き出せそうな感じもあるので、あえて話の続きを書きましょう。

 以下の内容はけして信じないように。内容を鵜呑みにして丸ごと信じるのは、愚かさの発露です。

錯誤とは何か §

 ここでいう錯誤とは以下を意味します。

  • 無時間性という罠

 これは歴史的な経緯や因果関係を認識できず、たった1つの真理が全てのケースに当てはめられると考える精神的な病理で、特にインターネット上に典型的に見られます。分かりやすい一例はアポロ陰謀説の根拠となる「アメリカの言うことだからみんな信じた」です。アポロ計画は冷戦の時代であり、世界の半分は「アメリカの言い分をまず疑って掛かった」という歴史的経緯を考えれば、明らかにあり得ない主張ですが、意外と信じてしまう人が多くいます。

 この事例に当てはめて言えば、「人間とは変化するものであり、人物像が全生涯に渡ってたった1つの結論で言い表せることはない」という当たり前の前提が欠落しているという点が無時間的です。つまり、「2009年のリアルタイムに作成された同人誌から抽出した情報によって組み立てられた人物像」とは、「今現在の赤松健像」そのもの(かもしれないもの)であり、それは「過去の情報から組み立てられた人物像と同じとは限らない」という常識的な前提が欠けています。

漫画とアニメの断絶という問題 §

 もう少し話を突っ込んでいきましょう。

 「マンガとアニメの両属性持ち」というタイプは、「萌えの人」を除外して考えれば、極めて存在が難しいと考えます。そのようなタイプは時間が経過するに従って、「漫画読み」の側に徐々に吸引されていき、「アニメを見ることもある(あるいはもうアニメは見ない)漫画読み」のポジションに落ち着く可能性が高いと思います。

 しかし、それは「2009年現在」の状況についての話です。

 おそらく、1980年代においては「マンガとアニメの両属性持ち」はオタクの多数派を構成する典型的なスタイルの1つだったと考えられます。

 ではなぜ、「両属性持ち」は多数派から消滅の方向に進んでいるのか。なぜ、現在は「アニメ」ではなく「漫画」への吸引力が作用しているのか。

 基本的には「アニメの凋落」と「漫画の隆盛」という傾向によって説明可能です。これについて見てみましょう。

アニメ黄金期と特徴 §

 1970年代後期から80年代に掛けてのアニメブームの時代の特徴は、「アニメが独自の価値観を語った」という点にあります。

 つまり、「おそ松くん」や「パーマン」のようにまず人気漫画家の描いた漫画ありきではなく、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」は漫画抜きで新しい世界を語っていたと言えます。これらの世界において、漫画とはメディアミックス展開のためにアニメと平行して描かれるものであり、軸はアニメにあります。

 このような傾向を支えたのは、おそらく「玩具メーカーの都合」でしょう。玩具メーカーは玩具を売る都合上、ロボットや変身バトンのようなアイテムを最大限にアピールする作品を望みますが、原作漫画とは上手く噛み合わない可能性があります。

 その結果として、J9シリーズや魔法少女もの等、当時の人気作の多くはアニメオリジナルです。(全てというわけではないが)

 また、原作があってもアニメ側のスタッフが独自の解釈によって作品を独自に作り上げてしまう事例も多かったと言えます。たとえば、月刊誌に連載される作品と、毎週放送するアニメではペースが違いすぎ、ほとんどアニメスタッフのオリジナル作品に等しい事例もあります。更に言えば、アニメ側のスタッフが意図的に原作をあり得ないほど改変してしまうことも珍しくはなかった、と言えます。(たとえば、宮崎駿などは原作無視の常習犯として有名)

 この時代、アニメを見なければ得られない快楽は多く、「アニメも見ること」は「アニメファン」以外にも典型的に見られる行動様式であったといえます。「マンガとアニメの両属性持ち」もごく普通にどこにでもいるタイプだったと思います。

アニメの凋落とは何か §

 これに対して、おそらく1990年代から顕著に見られるようになった傾向は以下の2つです。

  • 漫画原作付きアニメの増加 (アニメオリジナルの減少)
  • 多作化

 この時代、制作されるアニメの大多数は原作付きになっていきます。当然、原作付き作品はアニメオリジナルと比較して、新鮮さで劣るのは否めません。しかし、それだけではありません。漫画の連載とアニメの放送が平行して進行する場合、アニメ独自の解釈を入れることは将来の展開に対して不整合を生じる可能性が高く、排斥される方向に進んでいます。アニメだけのエピソードを番外編的に挿入することはあっても、原作のエピソードは原作通りに消化していくことが増えたと言えます (誤植まで原作通りという事例まで)。原作の改変が当たり前だった黄金期と比較して、原作付きアニメで比較しても新鮮さは落ちていきます。

 更に、アニメの製作本数の劇的な増加によって、粗悪な作品も激増していきます。

 従って、以下のような状況が典型的に発生します。

  1. オレ、アニメはけっこう好きなんだよね
  2. 久しぶりにちょっと見てみるか
  3. あんま面白くないなあ
  4. (そのまま忘れて次週はもう見ない)

 ちなみに公平を期すために補足すれば、この時代にあっても良いアニメは存在します。しかし、それを見いだすには極めて多くのアニメを見てチェックを行わねばなりません。「ちょっと見てみるか」程度の手間では、その作品には到達できません。これが、多作化の害です。

 このような状況下では、更に決定的な事態が進行します。

 優秀な人材が、アニメ業界を目指さない可能性が出てくるのです。

 まず漫画原作が当たり前というオリジナリティを発揮できない世界に、喜んで参加しようというクリエイターの卵はいないでしょう。

 更に言えば、アニメ業界は常に人が余っています。優秀な人材ですら余っています。スクール商法でニーズに対して極端に過剰な「プロ」を育成して送り込んだツケでしょう。優秀で実績もあるベテランが何人もいるときに、わざわざ若手にチャンスを与えるギャンブルを行うことも多くはないでしょう。

 こういう業界を優秀な若者が目指すわけがありません。

 実際、アニメの世界で注目に値する若手監督の名前に、最近はあまり出会いません。たとえば、サマーウォーズの細田守という名前は、「突如出現した若手の鬼才」ではなく、「やっと認められた中堅」でしかありません。

漫画界は才能の受け皿になったか? §

 一方で、漫画界の水準の向上は驚くべきものがあります。それは以下のような特徴が才能を吸引するからでしょう。

  • 資本が無くとも挑戦できる
  • 自分のオリジナルを描いて勝負できる
  • 社会的に認められる (棋院や元首相まで漫画の価値を認めて肯定している)
  • アニメ化やドラマ化等を通して更に儲かるチャンスがある
  • 人気次第であっさり切られるが、それは若手にもチャンスがまわってくることを意味する

 このような状況下で、アニメは独自性を発揮することが減り、漫画がメディアミックス展開で儲けるための手段の1つに堕した感があります。

 更に言えば、自分の作品をアニメにしたいという野望を持つなら、アニメ業界に行くよりも人気漫画家になる方が早道とすら言えます。

必然的に生じる谷 §

 もちろん、現場のスタッフが頑張っている事例は多く、その結果として良い作品が作られることも珍しい話ではありません。しかし、最初から課せられた枠組みそのものが、作品から鮮烈さを奪ってしまっています。それにも関わらず、アニメを楽しもうと思うなら、漫画を読むという行為を封印するしかありません。読まずにアニメを見れば新鮮だからです。

 一方で、漫画を読んで鮮烈さを体感した読者からすれば、鮮烈さにおいて大幅に劣るアニメをあえて見る必然性は乏しいことになります。

 従って、両者の間には相互にコミュニケーション不可能であるほどに決定的に深い谷が生まれざるを得ません。別世界の住人といえるほど、異なる価値観と常識を生きることになります。

 さて、問題は決定的な谷が生じた時点で「両属性持ち」はどうなるのか、です。

 答えは明瞭で、特に大きな理由がなければ、漫画側に流れることになるでしょう。漫画には積極的に読むべき魅力があり、アニメは積極的に見るべき魅力が乏しいからです。

まだ終わりではない §

 というわけで、過去に「両属性持ち」であっても、現在は「漫画読み」側に吸引されていく傾向が存在することを説明したわけですが。

 話はここで終わりません。

 ではネギま!のOADとはそもそも何か、という問題が浮上してくるからです。

 このOADは原作ファンのためのアニメと位置づけられています。

 原作ファンは、この文脈での分類に即して言えば、おそらく2つに分類できます。

  • 漫画読み
  • 萌えの人

 「アニメの人」はここに含まれません。

 そして、この2種類の中でアニメを見る習慣を持つのは「萌えの人」だけです。

 ならば、「萌えの人」の水準に合わせた単なる「萌えアニメ」を作るだけで良いはずです。つまり、表現が単純に記号的に整理され、心理表現もなく、ただ原作通りのレイアウトの中に、原作ときちんと似せて綺麗に描かれたキャラがいれば十分です。つまりコミック24巻限定版付属「魔法先生ネギま! 〜白き翼 ALA ALBA〜 第2巻」の水準で十分です。実際、その水準で喜んでいた人も多いようです。(私は痛烈に批判したけどね!)

 しかし、その後のネギま!OADはその水準で止まることはなく、必死にあがきながらもっと上の水準を目指そうとしているようにも見えます。

 では、ネギま!OADが目指す真のゴールとは何か?

 それは、誠実に「原作ファンのためのアニメ」という言葉を解釈した通り、つまり「萌えの人」だけでなく「漫画読み」も包含すると考えられます。

 当然、「漫画読み」であってもアニメを見る人は多いはずだし、アニメに期待する水準が存在するはずです。では、彼らが期待する水準とは何でしょう?

 アニメを見る習慣を持たない人たちが見るアニメは、世間で話題になるアニメに限られるでしょう。とすれば、「萌え世界」という小さなコップの中でだけ話題になるような作品は当然彼らの目に触れる機会に乏しいと言えます。アニメ映画でいえば、テレビのゴールデンタイムで放送される映画の最後に紹介される水準の映画ということになるでしょう。

 とすれば、今年のアニメ映画で例を探せばサマーウォーズの水準です。「崖の上のネギま?」ではアシスタントの皆さんがサマーウォーズの名前を出していますが、これはサマーウォーズをかなり意識していることを示します。この仮説に従えば、意識するのは当然ということになります。

まとめ §

  • 赤松健という人物は、過去はどうであろうとも、おそらく現在の分類は「漫画読み」であろう
  • ネギま!OADが想定する客層は原作ファンであるが、それは「漫画読み」と「萌えの人」の双方を包含するようだ
  • 従って「萌えアニメ」の水準では「漫画読み」のニーズを満たし得ない以上、更なる品質の向上が強く求められるのは必然である
  • しかし、なぜ向上が要求されるのか「萌えの人」には理解できない可能性がある。彼らが理解できない理由は、要求が別の誰かのニーズを満たすことを目的としているからである。だが、それは「萌えの人」を軽視しているという意味ではない (萌えの人も大切なお客様である)

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