明大前駅は京王線と井の頭線が十時を形成しています。その十時の北東側の住宅地(商店街が尽きた先)にはマンホールの多い道がいくつかあります。マンホールが多いことは水路の跡、とすればそこには水路があったのでしょうか?
そのような問いかけをしたときに悩ましいのは、仮にその水路があったとすると、神田川笹塚支流に向かって流れていたのか、それとも明大前駅にあったと想定される谷地の水路に合流してそのまま北沢川に入っていたのか、です。
実際に航空写真を見たり現地を歩いたりしてみました。まさか、タモリさんのように高低差をこれほど意識して歩き回る日が来るとは思いませんでした。
その結果、以下のことが分かりました。
- マンホールが多いのはおおむね起伏の手前、つまり明大前側に多い
- マンホールの多い道は線路に対して平行であったり直角であったりする
- そのあたりだけ宅地化が早い
そこから推測されるのは以下の点です。
- 京王線建設後に、もっとも農地としての使い道に乏しい最高地を宅地として造成したものであろう
- ここで想定される水路はその宅地の排水路として道路とセットで整備されたものであろう
- 排水路は明大前側を指向していたのであろう。神田川笹塚支流の方向ではない (途中に既に玉川上水や甲州街道がある)
- それなりに規模の大きい排水先として想定された、ということは、宅地の造成は井の頭線建設前かもしれない
実はここでくせ者は「玉川上水や甲州街道」です。これらは江戸時代に人工的に作られたものなので、手に入る資料を見てもそれ以前の状態が分かりません。そもそも江戸時代の時点で人の手が多く入っていると考えられます。従って、仮に明大前北西部に水源があり、それが神田川笹塚支流の方向に流れていたとしても、「玉川上水や甲州街道」の都合で分断されたことになります。もちろん、分断を意識しない程度の小さな流れです。つまり、「玉川上水や甲州街道」の南側にある最高点から「玉川上水や甲州街道」までの区間は人工的な手が江戸時代から既に入っている可能性があるということです。そこに何があっても痕跡は既に江戸時代の時点で消えている可能性があり、明治以後の資料を見ても良く分からない可能性がある、ということです。
しかし、早期に宅地化されたらしい明大前北東部も同じです。昭和20年代の航空写真をいくら見ても宅地化前の状況は良く分かりません。
というわけで、おそらく以下の通りに結論できると思います。
- 神田川笹塚支流や明大前に流れ込む水の流れが無かった、とまでは言えないが少なくとも痕跡の詳細は江戸時代には消されたであろう
- これに限らず、京王線と「玉川上水や甲州街道」に挟まれた区間は人の手が大幅に入っている可能性がある
- マンホールの多い道は、人工的な排水路の跡だろう。これらは主に明大前側に流れていたのだろう。いや、既に存在する「玉川上水や甲州街道」を避けるために明大前側に流さねばならなかったのだろう
というわけで。実は以下のようなことが言えるのではないでしょうか?
- (既存水路が明確に想定できない場合)マンホールの多い道路は、宅地が古いことを示す (かもしれない)
つまり、宅地開発が古いと下水が整備されていないのでワンセットで排水用の水路を道路とセットで造った名残ではないでしょうか? その水路を全て道路に転換したことで、結果的にマンホールの多い道ができるのではないでしょうか?
感想 §
神田川笹塚支流は少しだけなら歩いたこともあり、上流部は完全に徒歩圏内です。玉川上水新水路に隠れて今ひとつ注目度が低かった気がしますが、ここも別途注目すべき場所かもしれません。少なくとも環状7号線より西は明らかにしたいところですね。