きむらけんさんが下北沢X物語(1462)~江戸見坂的視点からの文学論~で以下のように書いています。
荏原内陸部の道は、みな品川に通ずる。目黒道、碑文谷道、蛇窪道、稲毛道、品川道、すべてそうである。碑文谷道については何度も歩いて辿った。ところがつい最近になって家のすぐ近くにある古道も品川へ通ずる道ではないかという疑いを持ちはじめた。大正年間発行の古地図を見てそう感づいた。
これを読んで目から鱗が落ちました。
つまり、すべての道は品川に通じていたのです。江戸時代より前の江戸地域は交易地であり、品川は江戸城よりも古くから存在したようです。江戸城は太田道灌が造る前には存在していないわけで、道が品川に通じていたのはある意味で当たり前です。
ではそのことに、下北沢の人が気づいて下高井戸の人が気づかなかったのはなぜでしょう?
- 甲州街道の特に滝坂以東は江戸時代以降に作られ、新宿、四谷経由で江戸城を指向している
- 周辺も大きく様変わりし、新宿、四谷経由で江戸城を指向している
- 神田川も飯田橋経由で東に流れていく (品川方面ではない)
ところが、江戸時代以前にまで遡ると以下のようになります。
- 甲州街道の滝坂以東は存在しない。滝坂道があるだけである
- 鎌倉街道と称される道がおそらく下高井戸を南北に貫通している
- 神田川は改造されておらず、まだ平川であり、おそらく日比谷入江に注ぐ
- 日比谷入江は品川の目と鼻の先であった
というわけで、道に注目すると下高井戸から品川への経路は存在しませんが、目の前の川を下れば品川らしいのです。
滝坂道の行き先はどこだ? §
そこではたと気づきました。
滝坂道の終点は渋谷だと思っていましたが、違うかもしれません。滝坂道を歩く人は渋谷を通過して更に先に進み、最終的に品川を目指したかもしれない、と思い始めました。とすれば、滝坂以降の経路が変更された理由も明らかで、それは目的地が品川から江戸城に変更されたのです。
とすれば、滝坂道(旧甲州街道)も品川を目指す道です。
だがしかし §
とすれば、もっと近くに品川指向の道が見て取れるはずだと思いますが、あまり身近には見られない感じです。淀橋台地は、甲州街道や玉川上水の建設で徹底的に作り替えられ、本来あったと思われる古道も破壊され、地域全体として新宿指向、江戸城指向が見えます。おそらく、素直な品川指向が残存している、していない分水嶺となっているのが淀橋台地だろうと思います。そして、淀橋台地の稜線そのものも、「残存していない側」にあたります。下高井戸は稜線と稜線から北に当たるので、あまり明瞭に品川指向が見られませんが、分水嶺より南にあたる下北沢ないし荏原内陸部は残存しているのかもしれません。
余談 §
江戸時代より以前の重要な交通路は府中を起点に品川に至る経路(滝坂道)と大宮八幡宮に至る経路であり、中間の下高井戸は通りません。通っても、どこにも行けません。ということは、江戸幕府からはそこを買われて、あえてそこを通す経路を街道にしたという可能性もあり得ます。とすれば、道を通してくれなかったそれ以前の政権ではなく、江戸幕府に対して、つまり江戸に対して注目を注ぎ続けることも下高井戸の宿命かもしれません。稜線以南の下北沢地域とはそこが違うのかも。
ということを、品川方面に直行するルートを持たない下高井戸から思いました。
余談2 §
大宮八幡宮方面から品川方面への古道がありそうな気がしますが、まさに淀橋台地を横切ることになるので、残っていないのかも。(江戸城方面を指向する形に作り替えられているのかも)
余談3 §
きむらけんさんも代田橋語りの多い人ではありますが、最近の私も多いのです。けれど、話は交差しません。おそらく、淀橋台地を分水嶺として、南と北では話題が違うのであまり交差しない?