国立公文書館の出入り業者よりコピー結果が届きました。
CD-Rに画像ファイルを依頼できるとは、良い時代になったものです。あらためてコピー結果をスキャンしないで済むわけですから。
というわけで、この図面の価値は多きいと言えます。
なぜなら、面白い事実を証明するからです。
過去の印象 §
下高井戸駅北西の、線路と甲州街道の間の細い道は前から水路跡ではないかと疑っていました。
この図面は下水溝渠新設の図面ですが、この道にジャストミートします。
つまり、この道は明らかにもともと下水です。
更に工事区間とその先を見るとこうなります。
その先は描いていないので良く分かりません。また「京王」の資料なので、線路と交差する部分に溝渠を造ったというだけで、下水の詳細はわかりません。
推定してみよう §
- 戦前の比較的遅い時期に作られた新規の下水である (江戸時代には無い)
- しかし、早々に消えて無くなったのかもしれない。(駅近くの住宅街、商店街だから最初から無理があった)。昭和20年代の航空写真では存在を確認できない
- 痕跡は、世田谷区側にはおそらくない。杉並区側は道としてある程度残存する
- 残存区間の一部は、典型的に見られる道が家1軒を隔てて3本並んでいる (中央が水路跡)という杉並の水路跡によく見られるパターンである
- 残存区間の多くは住宅街であり、甲州街道や商店街で痕跡はほとんど残らない
- 水源はおそらく玉川上水であろう
- 水を送る先は不明確だが、下高井戸の大きな踏切の南部で急に低くなっているあたりだろう
- とすれば、「上水記」に記録が無くて当たり前である。江戸時代の記録に昭和初期に新設された水路が載っているわけがない
- とすれば、「上水記」に記述はないが、実際は玉川上水から引いた水があちこちにあったかもしれない。その痕跡は残っているかもしれない
京王を追いかけていて水路の問題が1つ解決して新しい課題が出てきてしまいました。どうしよう?
2009/12/11追記 §
2つめの地図を入れ替え、表記を下水/溝渠に直しました。また水源環境に打ち消し線を入れました。下水なら水源は必ずしも想定されません。2つめの地図において明瞭に見られるラインはどこまで続いているか良く分かりませんが、南の終点は明瞭なので日大通りまでかもしれません。ちなみに、大庭紙文具とドトールの隙間ないし、ドトールのある土地を下水が通っていた可能性があります。いずれにせよ、明確なのは「線路の下に溝渠を新設して下水を通すという図面が残る」という事実だけで、他は全て不明瞭な推定です。