2009年12月24日
トーノZEROアニメ感想ASSAULT GIRLS total 8734 count

なぜASSAULT GIRLSへの祝辞が少ないのか

Written By: トーノZERO連絡先

 ふと気づいた話です。

 ASSAULT GIRLSの劇場に貼られていた祝辞の言葉が細田守さん(だったと思う)のものは目に付いたものの、年季の入った大物の映像作家の名前は見えません。

 しかし、中身を考えれば当然です。

 この内容ならば、実際にネットゲーをやったり、やってる人が身近にいなければ分かりませんね。そういう意味で、主流からはじき出された「若手」に入る監督ならば祝辞を書けても、「年季の入った大物の映像作家」つまり「ゲームなど馬鹿してやらない世代」が直感的に分かる世界ではありません。

 そういう意味では、既にAVAONの時点で、あるいはパトレイバー2の時点で「トレボー」だの「プリースト」だのと言ってしまった時点で、もはや別の世界に行ってしまったのかも。そりゃ、Wiz体験が無ければ直感的に分からないよね。もちろん、格好良く作られている後期のものではなく、ずっと昔のシンプルな、あれね。シンプルゆえに想像力を乗せる余地があって、矢野徹さんがWizardry日記を書く等、想像力の源泉になりうる世界ね。

ゲームはドラマだ! §

 ゲームをプレイするという行為はドラマになります。

 ゲームにドラマを与えることは重要ですが、そこから先はプレイヤーの問題です。そこで、プレイヤーは作り手の思惑を越えた部分で、自分の物語を紡ぐことになります。従って、ゲームとは「お仕着せ」ではなく、特にネットゲームは人と人がぶつかる予測不可能な世界に入って行きます。人を忌諱して行く場所ではありません。むしろ、人とぶつかりあうために行く場所です。

 しかし、多くの人の想像力は「ゲームにドラマを与えること」で止まります。そこから先は本当にやっている人の領域でしょうね。

余談・コクピット視点 §

 ちなみに、コクピット視点の描写が強化されている感じは、作り手側にゲームのプレイヤー的な感覚が入ってきている証拠でしょう。ヤマト復活編にせよ、このASSAULT GIRLSにせよ、そういう意味で「ある種の隔絶した新しさ」があるような気がします。つまり、作り手の「ボク」は大局から見下ろす神の視点だけでなく、その場の誰かの視点すら手に入れているわけです。

 (さすが、イノセン・テイセスで宣伝に駆り出されて実際にプレイした押井監督とも言えますが、あのコクピット視点でミサイルが時期から飛翔していく感覚はイノセン・テイセスではなく、Project Acesの現代戦闘機を用いた他作の感覚かも)