2010年02月27日
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他の人間と遊ぶゲームは本当に高度なのか? 楽しいのか?

Written By: トーノZERO連絡先

 マルチプレイヤーのゲームはシングルプレイヤーのゲームよりも高度である、あるいは面白いという迷信があるようなので、少し書いてみましょう。

コンピュータゲーム出現以前 §

 ゲームとは基本的に複数の人間が同時に遊ぶものでした。一人で遊べるゲームが無かったわけではありませんが、まず相手がいることが前提となります。また、対戦する相手が存在することが基本です。チーム戦で、味方も人間という場合もありますが、基本的に敵は人間です。

 このような状況下で、「マニアックなゲームは相手を見つけにくい」という点が問題でした。人生ゲームなら相手がいても、TRPGやSLGは相手が見つからないといった問題が容易に起こりえます。

シングルプレイヤーのゲームとは何か? §

 コンピュータの導入によって起こったことは、「見つけにくい相手をコンピュータに肩代わりさせる」という方法論です。これによって、D&Dでは相手が見つからないが、Wizardryなら1人で遊べる、パンツァーブリッツでは相手が見つからないが、大戦略なら1人で遊べるといったことが起こるようになります。不完全ではありますが、一応の進歩と言えます。しかし、コンピュータの通信機能が存在しないか極めて限定的であるため、複数のプレイヤーが通信回線を介して遊ぶという形態はほとんどあり得ませんでした。

マルチプレイヤーのゲームとは何か? §

 コンピュータと通信回線の普及によって成立したものです。

 この場合、コンピュータを前にしてプレイするものの、他のプレイヤーと通信回線を介して接続されている点が特徴です。

 この形態は大きく2つに分けるられます。

  • 他の人間と対戦するもの
  • 他の人間と協力して何らかの敵と戦うもの

 この場合の敵は更に別の人間ということもあり得ます。

 また、協力と対戦は完全に区別されるものではなく、区別は曖昧です。たとえば、友軍プレイヤーは陣営の勝利のためには協力関係にあるものの、ランキング戦では敵であるといったことが起こりえます。

進歩か回帰か? §

 というわけで、マルチプレイヤーのゲームは進歩か回帰かといえば、基本的には回帰であると言えます。つまり、ゲームとは元々マルチプレイヤーが基本であり、技術の力でその状態に復帰しただけだと言えます。

相手の問題 §

 マルチプレイヤーのゲームは、相手に着目したときに2つに分類できます。

  • 知っている人と遊ぶ
  • 知らない人と遊ぶ

 とはいえ、前者はかなり難しいと言えます。同じようなゲームに興味を持ち、同じ程度の認識と技量を持っている場合のみ、遊びが成立します。

 後者は、常に「見知らぬ相手との人間関係」という問題が生じ、ゲーム中とはいえ好き勝手に振る舞うことができない制約となります。知っている相手なら、これぐらいまでなら構わないだろうという推測が成り立ちますが、見知らぬ相手は分からないので常に最大制約された形での言動が強要されます。

 従って、前者は限りなく不可能に近く、後者は抑圧的であると言えます。

従って §

 ちょっと息抜きに、気楽な娯楽としてゲームを遊ぶ、という形態を考えたとき、実はマルチプレイヤーのゲームはあまり適していないことになります。

  • ちょっと息抜きしたいときに相手も遊んでくれるか分からない
  • 相手に対する気遣いを持つと、あまり息が抜けないかもしれない

 従って、相手に対する時間的拘束の制約が希薄なGNOの任務や、ドラクエ9のすれ違い通信は「息抜きとして遊べる限界領域」に存在するものであり、このあたりが現実的な限界であると考えられます。たとえば、すれ違い通信モードにしたドラクエ9をポケットに入れておき、息抜きの時間にポケットから出してチェックするという遊び方はありでしょう。しかし、常にゲーム機の前に張り付いて相手を意識した連携プレイを続けねばならないゲームは、息抜きにならないかもしれません。

アサルトガールズとは §

 従って、押井守監督の映画「アサルトガールズ」とは、パーティーを組むことの人間関係的な難しさを描いた作品であると見なせます。パーティーを組む決断を行う心理的な障壁そのものが、乗り越えるべき壁としてそこにあります。相手の趣味を愚弄したり、相手を騙したり、場合によってはPKということもあり得ます。

 従って、これはマルチプレイヤーゲームの難しさそのものがテーマであると言えます。そのような意味で、これは誰もがマルチプレイヤーゲームをプレイする中で遭遇する難しさそのものであり、非常に単純明快で分かりやすいものです。

 しかし、一方でそういう事態に自ら遭遇していない場合、極めて理解しがたく、「中身が無い映像美だけの映画」と解釈しがちであるとも言えます。しかも勘違いした「マルチプレイヤーゲーム絶賛」の風潮を知っていれば尚更でしょう。

ゲームマニアの問題 §

 実はもう1つ、マルチプレイヤーのゲームには問題があります。

 それは、ゲームに熟達した上位者が、人間関係に熟達しているとは限らないという点です。

 つまり、「子供ような身勝手な言い分を振り回す迷惑な者」がやたら物知りで威張っていたりすることも珍しくなく、またアイテム課金を導入したゲームでも結局「ゲームに貢いだ金額」で決まってしまうこともあり得ます。つまり、どこまでなら投入できるかという金額の問題となり、単なる意欲の差が出てしまいます。そのため、浸っているプレイヤーはますます浸り、腰掛け気分のプレイヤーはすぐやめていくという2極分化も起こりやすいと言えます。

自分のペースで遊べない §

 実は、この問題は別の角度からも出てきます。たとえば、1日1時間遊ぶプレイヤーと、1日8時間遊ぶプレイヤーは歴然と結果に差が出ます。そのため、友達になってもすぐ一緒に遊べなくなります。ゲーム世界そのものも、多数派の進行に合わせて新しいイベントなどを行ったり、変化していきます。その結果、ゆっくりとマイペースで遊ぶということが、ほとんと不可能になります。

文化の問題 §

 マルチプレイヤーのゲームには韓国製が多いのですが、やはり文化的な相違なのか日本語化されていても微妙な部分で違和感が残ります。欧米製のゲームでもやはり同じです。更に、韓国製でもそれを明示しない事例が多いので、尚更縁がない人はマルチプレイそのものを敬遠しがちである可能性もあります。

 もう1つ、異なる国籍のプレイヤーをコミュニケーションさせようというシステムを持つゲームでは、そもそも言語の壁を越えた意思疎通が難しいという問題もあります。定型文の翻訳ができても、それだけでは十分ではないこともあるでしょう。そもそも、そのような機能を把握して使いこなすことも難しいハードルであるといえますが、本質的にそれはゲームではありません。また、息抜きで遊んでいるときまで英語を見たくない、といったリアクションは当然あり得るでしょう。

まとめ §

  • マルチプレイヤーのゲームは人間関係そのものである。つまり、ゲームというよりも対人関係である
  • マルチプレイヤーのゲームは息抜きというにはハードルが高すぎる

 というわけで、一時期は複数のマルチプレイヤーのゲームをやってましたが、現在は積極的にはやっていません。アカウントを持っているゲーム数も減っているし、持っていても遊ぶ頻度は減少傾向です。やはり前評判ほど面白くない、といったあたりが問題でしょうか。

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