話題その1 §
松原宿は滝坂道のクランク部にあり、今では平凡な住宅街になっているようです。ですから、松原宿は滅んだものと思っていました。
しかし、違いました。
松原宿の市街地の広がりが主に南西方向に広がっていることから、はたと気付きました。
小田急線豪徳寺駅から世田谷線に沿って南に続く商店街は、滝坂道に続きますが、松原宿の市街地の広がりの南西端と、広がりを共有しています。
つまり、松原宿は消えたのではなく、重心を豪徳寺駅に移動して商店街に変わったのではないでしょうか?
とすれば、豪徳寺南部の商店街の古さと充実ぶりが違和感として残っていましたが、やっと納得できた感じです。
話題その2 §
とすれば、以下のようにも解釈できます。
- 山下・宮の坂間の廃駅こそが本来の松原宿への接続用の駅であった
- 小田急の豪徳寺駅は松原宿ではなく豪徳寺への客を目当てとしているので、豪徳寺という名前だが、松原宿へのアクセスにも便利であった
- 宿場機能の衰退と、駅商店街機能の発展に伴い、重心が北進していく
- 豪徳寺乗換駅の山下の方が便利になってしまった
- 廃駅は不要不急とみなされて廃止された
鉄道の駅が、市街地に土地を確保できずに外縁に設置され、結果として外縁だったはずの鉄道駅が中心地に変わっていく現象は新宿等に割とよく見られる傾向です。そういう現象がここでも起こっていたのかも知れません。
話題その3 §
松原宿の話ですが、桜上水Confidentialさんから以下のようなメールを頂きました。(抜粋)
松原宿は、地名の松原とは切り離された場所です
しかし、全く別のものというわけではなく、
経堂の福昌寺の開基「松原弥右衛門」とその一族が拓いたと伝わっています。
松原氏は、中国からの帰化人、吉良氏の遺臣、医師とも伝わります。
お寺の開基、宿場の建設、地域開発(松原)と見ていくと、
いまでいう、土木建築にも優れたご一族だったのでしょう。
福昌寺と松原氏については、こちらをご覧ください
http://kyodo-n.jp/history/index.html
福昌寺は松原氏の菩提寺で、境内のお墓には、松原のお名前を多く拝見します。
私の友人にも、松原さんが何人かあり、そのうちのご一家は桜上水(上北沢)の旧家です。
不思議に思うのは、そのような松原のご一族は、ほぼ経堂にあり、
松原は上保さん、松原宿(豪徳寺一丁目)あたりは相原さん、大場さん、宇田川さんといった方々が地主さんであることです。
おそらく、経堂に領地を持つ松原さんが開拓した土地に、それらの方々が居を構えたのでしょうか。
因みに、松原、赤堤、上北沢、舟橋、廻沢(千歳村)のお寺が、真言宗であるに対し、
世田谷、宮坂、経堂のお寺の多くは曹洞宗で、もともと何かが違うのでしょう。
ご参考まで
というわけで、話が経堂に繋がってきました。
福昌寺とは、オバQ(Over the 小田急の略)領域にあって、これまで見えていなかったものです。ここにそういうお寺さんがあったとは、目から鱗でした。間近を何回も通っているのに。
ちなみに、「1/20000地形図 世田谷 明治42年測量大正2年」を見ている時に気になったもう1つのことは、「経堂」の表記が「經堂在家」だったことです。やはりお寺関係なのでしょうか。
松原から飛び火して経堂にも興味が及んでしまった感じです。下高井戸から見てもすぐ近くであるのに、なかなか縁遠く、経堂駅は徒歩で行くには少し遠いし、世田谷線でも微妙にずれていてまっすぐ行けない世界です。徒歩でも行けるのに、電車で行くと1回乗り換えて2路線の運賃を取られるわけで、近い割に縁が遠かった気がします。
オマケ §
農大や馬事公苑のあたりを流れていた用水は、前にチェックした地図では用水としか書いていなかったので、ただの名もない農業用水かと思いきや、この地図ではずばり「品川用水」と書いてあって目から鱗が落ちました。そうか、ここに流れていたのか! 世田谷線は北沢川を渡り、烏山川を渡りますが、この用水を渡りません。大きく上町で向きを変えてしまうからです。だから、これまで見えていなかったわけですね。