今日は、世田谷区立郷土資料館で常設展と季節展「ボロ市の歴史」を見てきました。図書を調べてに行ったついで、ですけど。
というわけで、本題は屋敷神の調査です。
実はそれ以前に駅から歩く途中で住宅地に鳥居を2つも発見してしまいました。どちらも、個人の家に鳥居がある形態なのかは微妙ですが、ともかく寺社ではない場所で鳥居を2つ発見です。これはびっくり。(しかし、無い場所にはまったく見当たりません)
図書コーナーに行って、各地域ごとの風俗を調べた調査報告の冊子をまとめて取り出して積み上げて1冊1冊調べ始めました。
その結果分かったことは、学芸員に訊くまでもなく調査結果があったことです。
- 最初から地域の調査メニューに屋敷神に関する項目が含まれていた
- XX家にXXがあるといった記述が、1地域に数個あり、カタログ化も完了している
- 今回チェック対象にして出てきた地域は上北沢/下北沢/等々力/大蔵/奥沢/馬引沢/用賀
つまり、以下のように言えます。
- 杉並区と世田谷区では屋敷神の扱いに大きな温度差がある
この温度差はおそらく以下の差だと思います。
その他 §
- 屋敷神の有無はどうも個々の家に依存するらしい
- 本家ならあるとも限らない
- 分家だから持たないとも言えない
- 屋敷神でありながら地域で信仰される場合もある
- 稲荷が多いようである (稲荷ではないケースもある)
- 移動させると祟りがあるとされ、家の持ち主が変わっても屋敷神は新しい持ち主に継承される例もあるようだ
- 日大では屋敷神を撤去して土俵を作ったが、事故が多いので屋上に祭り直したという記述もある
まとめ §
あらためてまとめ直します。
- 屋敷神の存在には、地域差がある
- 地域内にあっては、家の差である
- 世田谷区内では既に調査は終わっていて、XX家にXXがあるといった情報が網羅されている。特に秘匿するようなものではないようだ (リストの屋敷神が現存するか、あるいはリストから漏れた屋敷神については不明)
- 屋敷神は家ではなく場所に憑く
- 屋敷神は移動できないが、減少傾向にある
- 屋敷神は探しても徒労という気がするが、気にしながら歩いているとしばしば目に入ってしまう (朱塗りの鳥居は目に入れば目立つのだ)
感想 §
杉並と世田谷の温度差は驚くばかり。杉並の方はいくら資料をみても話が出てこない上に、質問しても一般論でしか答えがありませんでした。(まだ完全な答えはもらっていませんが)
しかし、世田谷に行くと資料を見ると出るわ出るわ、何も努力しないで大量の記述に出会えました。
コピーすら取る意味を感じないぐらいの量でした。
余談・なぜ「移動できない屋敷神」が減少するのか §
これは矛盾しているように思えます。
しかし、この傾向は事実であるようです。
いろいろ理由を考えてみました。
仲介者説とは、不動産を取引する仲介者が入った時、その仲介者を経由する時点で屋敷神や祟りの話が消えてしまうというアイデアです。元の持ち主は祟りが怖いので屋敷神の話を仲介業者にするでしょうが、仲介業者は住むわけではなく土地が売れればよいので、話を聞き流して買い手には伝えないかもしれません。むしろ、不自由な制約があると知ると値が下がるかもしれないので、伝えないかもしれません。それで何も起きなければ単に屋敷神が消えてマンションが建って終わりです。トラブルが起きたとき、誰かが屋敷神のことを思い出せば祟りとしてマンションの横に祭ってお茶を濁すかも知れません。
宗教のシェア争い説というのは、有力なより新しい宗教施設が近隣に出来ると、シェア争いで排斥される可能性があるという説です。この場合、屋敷神を駆逐して入り込もうとする新勢力は、祟りよりも強い力を持っているはずなので、祟りを恐れることなく屋敷神を退去させられます。江戸時代にごっそり寺が移転してきた下高井戸東部地域では、こういう争いが既にあったかもしれません。
余談・もう1つの推定 §
まだサンプルが少なく、しかも劇的に増える見込みも無いのですが。
現時点でのサンプルを4つとすると、以下のようなことに気付きました。
- 上町では天祖神社に近い場所に集中的に見つかる
- 永福町では永福稲荷神社に近い場所に集中的に見つかる
つまり以下のように言えます。
- なんらかの宗教施設に近い場所に集中的に見つかる
- 屋敷神には、地理的に近い位置にあり、それに対応する上位の神社を想定できるのではないか
- シェア争いの際、神社に近い場所は聖域として信仰が守られた可能性があり、そこだけ屋敷神が残存できた可能性もある
とはいえ、本当にそれが事実かは分かりません。サンプルを増やして精度を上げられる見込みもありません。
余談・天祖神社のルーツ §
天祖神社はノーマークだったので、改めて調べてみました。
上町天祖神社|世田谷区世田谷の神社より
上町天祖神社の創建年代は不詳ですが、もと横根の地(伊勢森)にあった稲荷社の祠を、嘉永己酉(1849)当地へ移して新たに祠を作ったと伝えられます。
そうか! これも稲荷なのか!
屋敷神と稲荷、繋がってきたぞ。