下高井戸の玉川上水には南岸に沿って北沢用水の分水が流れていた、という話が気になって、想定範囲である放射5号線分岐付近から荒玉水道付近まで歩いてきました。そのあとで、明治初期の迅速即図を見ていてはたと気付きました。
「流路が違う」
そして、これが決定的です。
実は明治初期の本格的流路改修はあり得、しかも状況を上手く説明できることに気付きました。
なぜ本格的流路改修はあり得るのか §
ずばり通船問題です。微妙なカーブを取り除いて幅を広げる工事は意味があったのでしょう。
解決される矛盾 §
- 北岸には崖っぷちのきわどい流路が見られる→北寄りに改修された。本来はもっとゆとりのある南
- 北岸には過剰な深い掘り割りが見られる→北寄りに改修された。本来はもっとゆとりのある南
- 南岸には水道用地の空き地が多い(一部過去形)→本来の流路はもっと南側であった
- 南岸側に北沢用水と思われる痕跡が残るのは、鎌倉街道以西だけである→以東は流路改修の対象であり同じ場所ではない
ちなみに、南側には高井さんのお墓があるわけですが、これは流路改修後の設置であると思われるので矛盾はしません。
高三南東の丘問題 §
流路改修説の最大の問題は、高井戸第三小学校南東部の屈曲部の標高が高く、そこを水路が通っていたとは想定しにくいことです。しかし、流路南部の水道用地に土が盛ってある状況は他にもあります。ここは、「流路改修で発生した残土を積んであった」等の何らかの理由で人工的に土が積んであったと解釈して対処できそうです。
すると、北沢用水の最初の分水がそこにあっても矛盾しないことになります。しかし、明治初期には既に使われていなかった、という推定も可能になります。
明大前問題 §
同様の流路改修らしい地図上の痕跡は明大前の井の頭線と交差するあたりでも見られます。(もちろん、迅速即図の時代に井の頭線はまだない)
感想 §
高井戸第三小学校の卒業生であり、玉川上水第2公園は通学路として使っていました。なので、あまりにも当たり前で見落としていました。分かりきっていたはずの場所の解釈が音を立てて変わっていくのは凄いことです。