「2199の監督である出渕裕のメカデザインは押井守の要求と相性が悪い」
「でも、出渕裕が悪いわけじゃないんだろ?」
「そうだ。押井守によるブチメカ批判はとても自然で読んでいて納得できるものであったが、それにも関わらず出渕裕のいい仕事はいくらでも列挙できる」
「矛盾しているね」
「しかし、突然ヤマトというファクターを入れた瞬間に矛盾の根っこが見切れた気がした」
「えっ? どうして?」
「出渕裕の原点にヤマトがある。しかし、押井守には無い。それがとても重大な問題を引き起こすのだ」
「なぜ?」
「メカあるいは設定に関する決定的な齟齬が生じるからだ」
「説明してくれるんだろうね?」
「するけど、その前に仮に以下のように規定しよう」
「ヤマト少年と映画少年には差があるの?」
「そうだ。ある」
「じゃあ、まずヤマト少年を説明してくれよ」
「ヤマト少年にとって設定とは絶対的な拘束力を持つものではない。また、設定とは全て便宜上のものであり、エピソードが進むと忘れ去られたりするものだ、そもそもヤマトの形状そのものが矛盾の塊であり、立体にならない」
「じゃあ、映画少年は?」
「実写で撮るには立体になる必要がある。つまり、理論的な整合性がとても重要になる。いかに虚構のセットを撮影しようと、セットが組める程度の立体としての整合性は欲しい。そうなると、人型ロボットなんてお笑いぐさになる」
「どうして」
「安定が悪くてすぐ倒れるからさ」
「ひ~」
「でも、ヤマトの場合、アニメだからそんなことは気にしない」
「それで?」
「だから映画の場合、撮影できるように考案されたアイテムは設定通りに作られる必要がある。そうじゃないと撮影不可能になるからね」
「そうか」
「でも、ヤマトの場合、設定は参考になる指針程度だ。アニメーターが設定を無視して描いたカットも多い。というか設定そのものに矛盾が包含されている」
「それがどうだっていうの?」
「だからヤマト少年の考えるメカとはそういうものなのだ」
「どういう意味?」
「設定とは参考になる指針程度だ。どんどん細部を変えていっても構わない。記号が残り、『ああ、あれか』と分かって貰える限り、どんどん変化させて構わない」
「それにどんな意味があるの?」
「ガンダム0080とラーゼフォンが解釈可能になる」
「説明してくれ」
「ガンダム0080では、メカを徹底的にデザインし直して描いている。バランスがシャープになってより繊細になった。しかし、なぜそこまでデザインを変更してしまえるのだろうか。ヤマト少年ならそれができる。設定は絶対ではないからだ」
「なるほど」
「ラーゼフォンは、コクピットに乗り込んだはずの主人公が人形になっていたりする描写もあるが、これも何ら論理的に整合しないが、それでもいいんだ。設定は絶対じゃないから。放射能の中でしか生きられないはずのデスラーが古代と酒を飲んでも許されちゃう世界観を生きているのだから当然だ」
「ひ~」
「しかし、映画少年のセンスはそれとは違う。もっと筋が通っていることを常識的に要求してしまう」
「ヤマト少年は要求しないのだね」
「そうだ。要求しても無意味であることを身体に染み込むぐらい知っている」
でもさ §
「でもさ。2199ではずいぶん設定の整合性を直しているじゃないか」
「良くも悪くもそれを気にするのが最近の客層ってことだろう」
「それでいいの?」
「結局根本的なところで、戦艦大和っぽい宇宙戦艦が空を飛ぶという根源的な矛盾は変化してないし、やはり整合性は破綻して当たり前の世界観を生きているのだと思うよ」
まとめ §
「ちなみに、WikiPediaにはこう書いてある」
(ブチメカは)メカとして物理的・構造的に無理があるものや、劇中の設定・考証を無視したものが多い。
「わはははは。ヤマトなら当たり前じゃん」
「そうそう。無理があるのも考証無視もヤマトなら当たり前。だから、以下のような批判は当たってると同時に的外れ」
このため、前述の不仲もあってか、押井守は「メカ音痴」と評している。
「押井守の考えるメカはそんなものじゃないけど、ヤマト世界のメカはそんなものなんだね?」
「おそらくな」
オマケ §
「思わず吹いた」
池袋コミュニティ・カレッジ3/24休講、3/31補講、4月以後より
4/28 アニメ映画小史(ヤマトからヤマトへ)
「ヤマトからヤマトって……」
「まあ、アニメブームの始祖が実質的にヤマトで、今年もヤマト2199なので、ヤマトからヤマトでも間違ってはいないだろうけど、おそらくもの凄く通じにくいと思う。特に社会からの2199へのリアクションを見ていると強くそう思う」
「それってどういうこと?」
「身をもってヤマトブームを知らない世代は、ヤマトと言われても分からない。ヤマトブームを知っている世代でも、ガンダムとか萌えアニメで体験を上書きされちゃった世代も分からない」
「見たら分かるとは言えないの?」
「言えない。なぜならヤマトを解釈する方法論そのものを彼らは持ってないからだ」
「ガンダムとか萌えアニメの方法論では分からない訳だね?」
「それがマジンガーZでもセーラームーンでも同じだけどな」
「ぎゃふん」
「だからさ。ガンダムにはガンダムのモードがあって、ヤマトにはヤマトのモードがあって、2199のスタッフは作り手はきちんと切り替えられている。方法論の違いが分かっていて違うものを作っている。しかし、受け手にとってガンダムは常識であり、基本。それとは違う方法論を受け入れる価値観を持っていない」
オマケDC版 §
0310より
ディレクターズカットについて、上映、発売と、お祝いを受けるのですが。
正直、複雑な気分ですね。
制作に至る経緯、制作中の震災、など、など。
「当事者にしか分からないいろいろな思いがあるのだろう、ということは分かる。本当にDC版をやりたかったのかどうか、も含めてな」
「でも、ここまで乗りかかった船だぞ」
「だから、いろいろあってもお祝いを言われる立場なんだろう」
「DC版のBDももうすぐだね」
「よし。ならばあえてここはお祝いの言葉を言わないことにしよう」
「じゃあどんな言葉を言うの?」
「百里の道を行く者は九十九里を持って半ばとせよ。今の我々に当てはまる言葉だとは思わんかね? (永井一郎の声真似で)」
「ってことは、DC版を目の前にガミラス本星に引き込まれて濃硫酸の海でとかされちゃうわけだね?」
「第3艦橋が溶け落ちたぞ!」
「どうしたらいいか分かりません」
「解けきる前にDC版を店頭に並べるのだ (自分の分はヤマトクルーで予約済みだけどね)」
「DC版はアイスクリームか!」
「姉妹商品はユリシーズ31アイスクリーム」
「んなわけあるかい」