2012年04月28日
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高井戸村役場は内藤さんの夢を見るか

Written By: 川俣 晶連絡先

 2月に見た「大正10年高井戸西部地図」に載っていた高井戸村役場の場所を見てきました。

 だいたい、このへんにあったことになります。

このあたり?

 しかし、今見ると人見街道沿いとはいえ、それほど栄えている場所という印象もありません。五日市街道や井の頭通りに印象で劣ります。

 だがしかし!

 周囲を少し見ている時、向かい側に「杉並保護樹林」の看板が。木が茂った場所があります。いったいどんな場所かと思ってちらりと見ると、表札は内藤さん……。

 その瞬間に全部つながりましたよ。

 高井戸丸太の別名は四谷丸太。四谷は内藤新宿と目と鼻の先。内藤新宿に居を構えた内藤さんの勢力圏内。つまり、四谷、内藤新宿、高井戸が一本のラインでつながります。

 更に調べると。

四谷丸太より

現在の杉並区宮前一および二丁目から南へ1km、神田川北岸の窪地帯の豪農(内藤家、横倉家、宇田川家)の持ち山に良材が多かった。

 ここにも内藤家が出てきます。

 ちなみに、何回も横を通った高井戸東のハイランドセンターの代表取締役は内藤雄士さんで、やはり内藤さん。

 (5)杉並で栗栽培!-内藤隆さんも内藤さん。(ちなみにこのページのお地蔵さんの写真の地蔵は見てきたばかり。

 第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界 (十三) 町内の植木屋 == 高井戸宿・火薬庫・御犬小屋!!には「内藤家の火事」についての記述あり。

 高井戸のページにも「それとやたらと「内藤さん」が多いことだろう」と書かれています。

 もう高井戸=内藤さんで良いでしょう。

更に進めると §

 高井戸に最初から内藤さんが多かったとは思えません。当初、上高井戸と下高井戸は分離されておらず一体ですが、下高井戸に内藤さんが多いとは思いません。

 おそらく、丸太生産に適した場所を求めて内藤新宿から西進してきたような気がします。

 その結果、選ばれたのが上高井戸。

 上高井戸という場所はねじれていて、神田川に沿った上高井戸が本家本元ですが、宿場をやるために土地を交換して甲州街道沿いの土地も持つようになった経緯があります。そこで、神田川沿いの土地が狙われたことで、上高井戸は本来の上高井戸の多くを内藤勢力に明け渡してしまう形になったのかもしれません。そして、内藤勢力の勢力圏は現在上高井戸を名乗らず高井戸西、東になっていると思うとすっきり見えてきます。

 高井戸村の成立も、宿場町の没落で弱体化した上下高井戸に依存せず、ブランド材で儲けている勢力を中心になって人見街道沿いに役場を設けたものかもしれません。

もっと進めると §

 下高井戸のブランド名は実質的に松原に盗られています。下高井戸駅も下高井戸商店街もほとんど松原にあります。一方の上高井戸も同じように内藤家にかなりの土地を持って行かれているとすればかなり皮肉。

内藤新宿の効能 §

 そうすると、競合関係にある高井戸宿と内藤新宿の関係もまた違った見え方になります。内藤新宿の設置は、高井戸宿の弱体化とイコールです。

まとめ §

 上下高井戸の勢力の弱体化は、当初杉並区成立から起きたのかと思いましたが、江戸時代から既に進行していて、明瞭な敗北は高井戸村成立まで遡りうるような気がしました。かなり根が深そう。

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