「物語は物語であり現実ではない……と言うことが分かっていない人は意外と多いのかもしれない」
「物語が現実ではないとしたら、どこが違うんだい?」
「事実は小説よりも奇なりというが、現実とは起こりえることは何でも起こる不条理な世界であり、予想もできないような奇怪な出来事も起きる。しかし、物語の世界ではそれが起きるとは限らない」
「それは物語の不十分さを意味するのかい? もっと作家は想像力を働かせて驚くような出来事を描くべきなのかい?」
「そうではない。物語論などやっても仕方が無いので全部飛ばす」
「えー」
「そうだな。要点だけまとめると以下のようになる」
- 物語は何らかの意図を表現するための手段である
- 物語は現実ではない
- 物語は物語世界の制約に従い、そこから逸脱はできない
- 物語世界の制約についての認識を持たない、あるいは不足している人は意外と多い
「物語が物語世界の制約から逸脱してはいけないの?」
「実は逸脱すると言う方法論はある。制約通りに作ると先が読めてしまうので、あえて制約からはずれるのだ。ただし、意味を理解した上で正しく制約から外れなければ意味はない。ただ単に無知だから制約から逸脱してしまった作品はつまらない」
「じゃあ、物語が物語世界の制約から逸脱すると何が起きるの?」
「つまらなくなる。読まなくても良い物語になってしまうか、読んでも意味が分からない物語になってしまう。あるいは意図が伝わらなくなる」
「ところで、この話はどうヤマトにつながるんだい?」
「うむ。1つヤマトの絡めて説明すると、ヤマト1977は物語世界の制約、特に映画的な物語世界の制約に対して非常に良好な編集がされている。あれは良いものだ。特にスターシャ死亡編の劇場公開版。あれは、正しく切るべき部分を切って、残すべき部分を残している。好き嫌いはあるだろが、物語としては正当だ」
「正当な物語なのになぜ好き嫌いがあるの?」
「物語は何らかの意図を表現するための手段である。だから、表現された意図が観客の納得の行くものであるか否かは物語そのものとは別次元の問題だ」
「物語は物語だけでは完結していないわけだね」
「そうだ。手段と目的を混同してはいけない」
「それで最終的に何が言いたいんだい?」
「ヤマトよ永遠にと、ヤマト完結編の2本に関しては、物語構造的に最後の編集段階で切るところをミスったのではないか、という気がしてきた」
「証拠は? 俺達は証拠が欲しいんだ」
「無い。単なる思いつきのメモだ」
「ただのメモかよ!」