「天空のエスカフローネの劇場版である」
「なんで今さらそんなものを借りたんだよ」
「ちちち。もともとDVDを持っていたんだ」
「なんで?」
「TVの天空のエスカフローネはけっこう好きだったけど、劇場版は映画館で見ていなかったんだ」
「ふーん。それで?」
「期待した内容ではなくてガッカリした」
「ダメじゃん」
「そういうわけで、1回見て10年以上放置されていたのだ。わざわざ数千円出して買ったのにね」
「それだけがっかりしたわけだね」
「でもね。今になってふと疑問を感じたのだ」
「なんで?」
「もしかして、TVシリーズを適当に忘れ去っている今見ると感想が違うのではないか」
「そんなことがあり得るの?」
「あり得る。なぜならTVシリーズの映画化とは、TVシリーズの価値を裏切ることが宿命づけられているからだ」
「ふーん。それで実際に見た感想はどうだい?」
「うん。この映画はね。天空のエスカフローネとしては失格だと思う。天空のエスカフローネ的な価値がそこに無い」
「じゃあダメだってこと?」
「いいや。これはあくまで天空のエスカフローネと同じ名前のキャラクターを使い似たような世界観を使い同じ音楽を使った全く別の物語なのだ」
「全く別?」
「始まりも終わりも展開も何もかも違う」
「どこが本質的に違うの?」
「TVシリーズは基本的にロボットアニメなのだが、劇場版はロボットアニメになっていないのだ」
「どういう意味?」
「実は肝心なところでロボットは一切出てこないという意味で、エスカフローネは象徴的な存在でしかない」
ああ、これは §
「ああ、これはと思ったのはね。昔は分からなかった土地勘が出てきたことだ」
「というと?」
「ひとみと友達が乗っていた電車は中央線。そのあと何やらいかつい建物から出てくるが、あれはおそらく聖徳記念絵画館。おそらく人身事故で止まった中央線は臨時に信濃町の駅で止まったのだろう。信濃町で降りると聖徳記念絵画館がある。そしてフォルケンがひとみを招く競技場は国立競技場。それは聖徳記念絵画館の隣だ」
「なんでそこまで分かるの?」
「聖徳記念絵画館には行ったことがあるからな」
「前は行ったことがなかったのだね?」
「そうだ。今は行ったことがある」
オマケ §
「なんで天空じゃないの?」
「それも分かった。TVシリーズは天空の話だが、この映画は天空の話ではないからだ」
「どういう意味だよ」
「社会から阻害されたひとみが、地球を他者と認識して外から見ていたが、そのようないびつな世界認識が払拭されて社会の中に入り込むことができた。その結果として、天空の地球が消えて異世界のひとみは消えるわけだ」
「まさか」
「そうだ。ひとみは実は天空に行ってはいない。ひとみの心が勝手に疎外感を作り出して自分の心を地球からはじき飛ばしただけなのだ」
「つまりなんだい?」
「心を描くための手段として用意された異世界譚であるという意味で、とても大人の作品だよ」