「この映画がやっと読み解けてきた」
「それはどういう意味だい?」
「神崎ひとみは国立競技場からガイアには行っていない。というか、そもそもガイアとは地球の別名であり、神崎ひとみはもともと地球にいてやはり地球にいる」
「は?」
「反乱軍のアバハラキとは秋葉原のアナグラムなのだ。つまり、神崎ひとみの行き先は地球の秋葉原なのだ」
「なんでそこまで秋葉原だと断言できるんだよ」
「なぜなら、当初神崎ひとみは原宿にいて、そこから信濃町(厳密に言うと国立競技場)を経由して秋葉原に行くのだ。その間は、実はほぼ直線で線が引ける」
「まさか」
「だからね。なんで信濃町付近が出てくるのかという理由は、原宿と秋葉原のほぼ中央にあって、陸上選手だった神崎ひとみに縁があるからだよ」
「ほんとかよ」
「実はね、国立競技場の真上に地球が見えるのだがこれはおかしい。なぜなら国立競技場は地球にあるからだ。つまりあの地球は幻なのだ。だから最後にこの幻は消える」
「じゃあ、アバハラキが秋葉原だとして、どうなるんだ?」
「だからね。アバハラキは敗残者の集合体なのだ。つまり、社会の敗残者としてのオタクの集合体なのだ。しかし、神崎ひとみとバーンとフォルケンとディランデゥは違っていて孤独の敗残者なのだ。他人を拒絶する存在なのだ。だから秋葉原でも浮いた存在になる」
「えー」
「映画そのものは、とても簡単で、彼らが他人を受け入れる物語なのだ」
「じゃあロボットの位置づけは?」
「エスカフローネは孤独なる敗残者の万能感を肯定する男根を持つ母親なのだ。だから、神崎ひとみは母親からの誕生をもう1回疑似体験する。羊水の中で異世界に行き、溺れそうになるのだ。そして、エスカフローネから擬似的に誕生する」
「じゃあ、ロボットはオタクにとって都合の良い個室として機能しないの?」
「そうだ。オタクが閉じこもるための個室であるかのように見せかけつつ、実はその機能を提供しない。だから、バーンの前からすぐにエスカフローネは消えてしまうのだ」
「えー」
「それだけではない。この映画は初歩的な機械が存在するレトロな時代の物語になっているのだが、要するに明治時代に近い。そして、作中に出てくる聖徳絵画記念館は明治天皇の偉業を記録する絵画を展示する場所なのだ。だから、そこで見た絵のイメージで神崎ひとみが見た夢がガイアの冒険なのだ。だから飛行機ではなく飛行船が飛行機械の主力であり、飛行機的なエスカフローネの飛行形態はあくまで飛行生物のイメージなのだ」
「むむ」
「だからね、他人を受容した段階で、エスカフローネは個室としてのロボットの姿であることをやめてしまう。上に人が乗ることができる竜になるが、もはや個室としての機能も、人型巨大ロボットとしての機能も持たない」
「じゃあ、全体としてこの物語の行き先はなんだい?」
「他人を受容することだよ。そしてその先は社会性の回復だよ」
「それって今のオタクには受容できない世界?」
「さあな。それは知らぬ」
「他にいうことは?」
「また見たいね。そうしたらまた何か分かるかも知れない」