2016年09月02日
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【暫定まとめ】ブルースター F2Aバッファローの真実?

Written By: 川俣 晶連絡先

主旨 §

 いろいろ分かったこともあるが、まだ全ての資料を最後まで読んだとは言えない状況である。しかし、既に分かったことを腐らせるのも勿体ないので、現時点でのまとめを書いてみた。内容はあくまで暫定である。

疑問 §

 日本のミリタリーマニアはF2Aというと馬鹿にするが、これは再評価が進む前のF4Fに対する態度に似ている。とすれば、F4Fがただのダメ戦闘機ではないのと同じような意味で、F2Aも本当はダメな戦闘機ではないのではないか?

主要な参考リソース §

  • OSPREY AIRCRAFT OF THE ACES 91 Brewster F2A buffalo Aces of World War 2 (洋書。日本語訳はこれを書いている時点で存在していない)
  • WikiPediaの各ページ
  • その他ネットの各種リソース

ミッドウェー海戦の問題 §

 迎撃のために待ち構えたF2Aが壊滅的な被害を被っている。

 この時のF2Aは海兵隊(VMF-221)のもので、各パイロットまでは調べきれなかったが部隊としては初陣。おそらく実戦経験は無いものと考えられる。

 ちなみに、ウェーク島で戦った海兵隊はVMF-211で別部隊。(使用機種もF4Fだった)

VMF-221の歴史 §

WikiPediaの記述の翻訳 (訳はいい加減だから信じるなよ。また記述内容も史料批判抜きで信じるべきではない)

VMF-221 was formed in July 1941 in San Diego, California.

VMF-221は1941年7月にカリフォルニアのサンディエゴで結成された。

In December of that year, following the attack on Pearl Harbor, they moved to Marine Corps Air Station Ewa in Hawaii.

その年の12月、パール・ハーバーへの攻撃に従い、彼らはハワイの海兵隊航空基地エバ(Ewa)に移動した。

(注、エバ基地は滑走路がジェット機には短すぎるという理由で1952年に閉鎖されている)

On December 25, 1941, fourteen Brewster F2A-3's landed on Midway Island after launching from the USS Saratoga.

1941年12月25日、空母サラトガから発艦した14機のブルースターF2A-3がミッドウェイ島に着陸した。

They were originally part of a relief force bound for Wake Island, but were diverted to Midway instead after the force was controversially recalled on 22 December 1941, Wake Island fell on the following day.

それらは、本来ウェーク島へのリリーフ部隊であった。しかし、議論の末1941年12月22日に呼び戻され、その代わりにミッドウェイ島にダイバートされた。

On March 1, 1942, VMF-221, VMF-222, VMSB-241 and their headquarters units formed Marine Aircraft Group 22 commanded by Lieutenant Colonel Ira B. Kimes.

1942年3月1日に、VMF-221, VMF-222, VMSB-241と彼らの司令部は、Lieutenant Colonel Ira B. Kimesに指揮されたMarine Aircraft Group 22に編入された。

The squadron’s first taste of combat came on March 10, 1942, when four of its pilots recorded the first aerial victory flying F2A-3's downing an enemy Kawanishi H8K "Emily" flying boat.

航空隊の最初の戦闘は、1942年3月10日に訪れた。4人のパイロットが、F2A-3で飛行中に敵のH8K"Emily"飛行艇(注:二式大艇)を共同撃墜した。

By late May, the squadron had been augmented with the arrival of additional aircraft. VMF-221 had 21 F2A-3's and 7 Grumman F4F-3 Wildcats, all of which were essentially worn out "hand-me-down" from the Navy.

5月の遅く、航空隊は追加の飛行機を受け取った。VMF-221は21機のF2A-3と7機のグラマンF4F-3ワイルドキャットを受け取った。それらは、海軍のお下がりだった。

(注:米海軍が使用したレキシントン、サラトガのVF-2, VF-3のF2AはF4Fに配備に伴って海兵隊に移動した)

Leadership of the squadron was passed to Major Floyd B. Parks, with Kimes taking command of Marine Air Group 22.

Kimesが指揮するMarine Air Group 22はの航空隊の指揮は、Major Floyd B. Parksに引き継がれた。

Much has been written of the inferiority of the Brewster fighter, particularly with regard to the Midway engagement.

ミッドウェイの遭遇戦はブルースター戦闘機の特に重大な劣勢とよく書かれる。

Many of Park's pilots, fresh from flight training Stateside, had very little operational experience.

Parkのパイロットの多くは、合衆国で訓練されたばかりの新人だった。彼らは非常に少しの操縦経験しか無かった。

This fact, combined with the overwhelming size and disposition of the Japanese force posed against the atoll's defenses, would have more bearing on the outcome than the operational capabilities of the F2A.

事実として、島を防衛する側に対して、圧倒的な日本軍の士気と戦力量が合わさって取るべき態度はF2Aのオペレーション能力を超えていた。

On June 4, 1942, during the Battle of Midway, the pilots of VMF-221 were alerted to intercept the incoming formation of Japanese bombers and the 36 escorting Zero fighters that were headed towards the island.

1942年6月4日、ミッドウェイの戦いの間に、VMF-221のパイロットは島に向かい接近する日本軍の爆撃機と36機の護衛ゼロ戦を迎撃した。

Parks led his squadron against the inbound Japanese armada, which combined air groups from Akagi, Kaga, Hiryu, and Soryu.

パークは接近するAkagi, Kaga, Hiryu, Soryuからなる空母部隊からなる日本の無敵艦隊に対抗して航空隊を指揮した。

In the lead were the level bombers, a "vee of vees" made up of Nakajima B5N "Kates", followed by the dive bomber formation of Aichi D3A "Vals" at a slightly higher altitude.

先頭はNakajima B5N "Kates"(注:九七艦攻)からなる"vee of vees"、続いてAichi D3A "Vals"(注:九九艦爆)からなる急降下爆撃機編隊が少し高い高度にあった。

The fighter escort was "stepped-up" behind the dive bombers, this disposition gave the pilots of VMF-221 a clear shot at the bombers for the first few passes.

戦闘機の護衛は、爆撃機編隊の後に増えた。この特徴は、VMF-221のパイロットに最初に数回の通過で明確な射撃を行う機会を与えてくれた。

Once the Zeros were able to engage the Marine fighters, the tables were effectively turned.

一度、ゼロ戦が海兵隊の戦闘機と交戦可能になると、テーブルはひっくり返った。

When the smoke of the battle cleared, fourteen of the squadron's aviators, including Parks, had been killed in action; four more had been wounded.

戦闘の煙が晴れたとき、Parksを含む14人の飛行隊のパイロット達は、戦闘中に死んでいた。更に4人以上は負傷していた。

Only two of VMF-221's remaining 13 aircraft were serviceable, effectively eliminating the squadron as a viable combat unit.

VMF-221は、13機が使用可能だったが、2機しか残らなかった。事実上、飛行隊は戦闘部隊としては消滅した。

Four of the squadron's ordnancemen were also killed when a Japanese bomb stuck the ammunition area near the airstrip at Midway.

日本の爆撃がミッドウェイの滑走路近くの弾薬の集積に行われたとき。4人の飛行隊のordnancemen も殺された。

For their actions during the Battle, the squadron, as a component of MAG-22, also received a Presidential Unit Citation.

戦闘中の彼らの行為により、MAG-22の一部である飛行隊は、Presidential Unit Citation(注:勲章の一種)も受けた。

"For conspicuous courage and heroism in combat at Midway Island during June 1942.

1942年6月のミッドウェイ島の戦いに見られる苦難とヒロイズムについて。

Outnumbered five to one, Marine Aircraft Group 22 boldly intercepted a heavily escorted enemy bombing force, disrupting their attack and preventing serious damage to island installations.

5対1と数で勝る状況で、 Marine Aircraft Group 22は勇敢にどっさりと護衛が付いた爆撃機隊を迎撃した。攻撃を阻止し、島の施設への深刻なダメージを回避した。

Operating with half of their dive-bomber's obsolete and in poor mechanical conditions, which necessitated vulnerable glide bombing tactics, they succeeded in inflicting heavy damage on Japanese surface units of a large enemy task force.

機械的な劣勢状況の中で急降下爆撃機の半数を無効とした。

攻撃されやすい航空爆撃戦術が必須とされる中、大きな敵機動部隊の水上部隊に甚大な被害を与えることに、彼らは成功した。

The skill and gallant perseverance of flight and ground personnel of Marine Aircraft Group 22, fighting under tremendously adverse and dangerous conditions were essential factors in the unyielding defense of Midway.

Marine Aircraft Group 22の空と陸の全隊員のスキルと勇敢な忍耐力で、猛烈な逆境と危険な状況と戦ったことは、堅固なミッドウェイの防衛に必須の要素だ。

(以下略。VMF-221は使用機種をF2AからF4Uに変更する)

機体そのものの評価 §

  • 実は胴体は太くない。キャノピーが長く寸胴なのでビヤ樽のように見えるだけ
  • コクピット下の窓の視界は良くなかったらしい
  • 引き込み脚ではあるが、いかにも過渡期の試行錯誤の産物でエレガントではない
  • 全般的にコンパクトである (九六艦戦、九七戦と、ゼロ戦、隼の中間ぐらいの印象)

評価の暫定まとめ §

  • 主に日本陸軍と戦ったマレー方面では、九七戦主体だった日本陸軍戦闘機隊に対しては十分に戦えたと考えられる。この状況は隼以降の機体が主力になることで解消されたと思われる
  • 主に日本海軍と戦った太平洋方面では、零戦主体の戦闘機隊に劣勢であったと考えられる
  • 零戦は軍事機密としてあまり情報が漏れていなかったし、隼は対欧米開戦の年に制式採用されて間が無い状況で、この2機種への対応が十分ではないとしても奇異ではない。特に欧州各国は本国で国家の命運を賭けた大戦争をしている場合である
  • 日本の戦闘機の主力を、九七戦、九六艦戦ぐらいと想定しているならば、F2Aで戦えるという想定に無理はない。実際にki27(九七戦)を撃墜したという記述が(事実か否かは別として)何回も出てくる
  • 仮に、零戦隼の情報を得ていても、いきなり本国の最新鋭機をヨーロッパからアジアに移動させるのは無理であろう
  • 戦闘機の空戦結果は機体の性能だけで出るものではない。ミッドーウェー海戦時のF2Aの壊滅は、F2Aのダメ評価には直結しない。事実、特異例であるフィンランドを除外しても、F2Aでエースになった者もいるし、F2Aに撃墜された日本機も存在する
  • 性能面で評価するなら、九六艦戦、九七戦 < F2A < 零戦、隼であろう。この順序は、そのまま時代的な技術的な洗練度の順位そのものであり、特にF2Aをダメと評価する要素にはならない
  • 米海軍の艦上戦闘機として採用されたF2Aだが、すぐに空母(サラトガ、レキシントン)から降ろされてF4Fに交代させられた。既に性能が十分ではなかったからだ。F2Aは海兵隊にまわされた
  • ミッドウェーでの戦いは、数で劣り、練度で劣り、性能で劣る状況で多数撃墜されたが、護衛戦闘機が駆けつける前に爆撃任務の日本機を攻撃して本格的な島の被害を回避させており、身を挺して任務はこなしたと言える。日本側からは【身の程知らずの馬鹿】扱いされているが、アメリカ側では勇気ある行動として称えられている。事実として、予定通りの戦果は挙がらず、【第二次攻撃の要あり】と認識させたので、この戦いは戦略的にはアメリカ側の勝利である。一方で、迎撃機が上がっていることが予想されているのに爆撃隊を守り切れなかった日本の護衛戦闘機の振る舞いは怠慢である。たとえ相手の戦闘機隊を壊滅させても、爆撃が妨害されていれば護衛戦闘機隊は任務を果たせなかったことになる

暫定的な結論 §

  • F2Aはダメなのではなく、単に過渡期で洗練されておらず、古いだけである。
  • 仮に、数において同等、練度が同等という条件でゼロ戦や隼と交戦していたら、そう簡単には撃墜できなかっただろうと推定できる
  • それにも関わらずF2Aが引退しなければならない理由は、様々な点で既に見劣りがしていた点にある。ただし、主たる比較対象はヨーロッパの最先端戦闘機であって、日本のゼロ戦隼ではない
  • ゼロ戦隼が主たる比較対象になっていないのは、ゼロ戦隼が制式採用した直後に開戦しており、情報収集や検討の時間を与えないという開戦タイミングの上手さにあると思われる。仮に開戦タイミングが前後に数年ずれたら、これほどスムーズには緒戦の大勝利を重ねられなかっただろう
  • 日本人を軽んじる人種差別的な視線は、確かに当時の欧米人にあったと思われる。しかしながら、他国からも輸入可能な機材の評価を軽んじることは考えにくい

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