2018年12月05日
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京王風土記1入手で見えてきた野猿峠ハイキングコースの謎の答

Written By: 川俣 晶連絡先

「昭和29年の京王風土記1を手に入れた結果、野猿峠ハイキングコースの謎の答が何となく見えてきた」

「それはどんな本なんだい?」

「昭和29年頃の京王沿線のいろいろなことが書いてある薄い冊子だ」

「野猿峠ハイキングコースのことも書いてあるのだね?」

「そうだ」

「では話を聞かせてくれ」

食い違う地図 §

「実はこの1冊の中ですら野猿峠ハイキングコースは一貫していない」

「なんだって?」

「56ページに掲載されている野猿峠ハイキングコース地図と、巻末の横長地図を比較してみよう」

地図2

地図1

「中味が違うぞ」

「そうだ。途中で線路の方に降りていく道は、上では平山城址公園駅に降りていくが、下では長沼駅に降りていく。野猿峠以西の描写は別物だし、高幡不動以東の描写も別物だ」

「それは、この資料が使い物にならないことを意味しているのかい?」

「そうじゃない。おそらく、ハイキングコースそのものは京王が計画的に作ったものではなく、既存の尾根道を適当に【このへんがハイキングコース】と言っているだけで最初から曖昧だったのだろう」

「えー」

「だから、厳密な経路を決定しようとすると破綻する。そういうものだったのではないか。実際に、現在同じ経路と辿ろうとすると地主がコロコロ変わって私道私有地の連続だ」

「京王がパッケージした商品ではないわけだね」

「平山城址公園付近の一部は京王の土地と思われるがな」

終点問題 §

「すると、終点がどこか分からなくてもおかしくないってことかい?」

「そうじゃない。もともと、御殿峠を通るという説と北野駅が終点であるという解釈が矛盾すると思っていた。横浜線の方に行ってしまうという解釈も矛盾すると思っていた。ところが矛盾しなかった」

「なぜだよ」

「つまり、以下のような経路を通るハイキングコースが京王風土記の全体地図には描かれていたのだ」

  • 野猿峠→御殿峠→横浜線横断→片倉城址の西側を南から北にぐるっとまわる→北野駅

「ずっと西に行きすぎてから引き返すハイキングコースかよ」

「そうだ」

「でもさ。片倉城址まで行ったら京王片倉で京王線に乗って帰る径路の方が良いのじゃないか? 横浜線はダメでも京王線を使ってくれるなら京王側もそれがいいだろ?」

「ふふふ。実は昭和29年頃だと、京王片倉の駅は存在しないのだ」

「な、なんだってー」

「駅は御陵線の駅として昭和6年に開業しているが、昭和20年から昭和42年までの間、駅は休止していたのだ!」

「すると、京王で帰ろうと思う客は北野まで歩く必要があったのか!」

「結局、この問題は【京王のハイキングコースの終点が横浜線というのはおかしい】という疑問だったが、結果として【横浜線は通過点で真の終点は北野】と確認できたので問題解決だ」

途中の分岐はどの駅に行くのかの問題 §

「本文中に、近くのどの駅からでも野猿峠ハイキングコースに入れたという記述があるので、長沼、平山城址公園、南平のどの駅からでも野猿峠ハイキングコースに至る道があったと思われる」

「単純に地図ではどれかを描いてどれかを省略してるという解釈だね」

御殿峠を通らないという問題 §

「野猿峠ハイキングコースは御殿峠を通らないというという証言もあるのだが、これも何となく分かった」

「それはどういうことだい?」

「普通の人間が高幡不動駅から横浜線を突っ切って、片倉城址をまわって北野駅まで歩き切るのはまず無理。体力が保たない。途中で大々的に休憩していたら時間不足になって1日では歩ききれない可能性が大きい」

「それで?」

「実は、実際にみんなが歩いた【通称としての野猿峠ハイキングコース】があって、それは高幡不動駅から平山城址公園駅ないし長沼駅までだったのではないか」

「なぜだい?」

「そこまででもかなりヘビーだし、しかも平山城址公園は当時京王運営の遊興施設だ。そこで遊ぼうと思ったら先に行くのは難しい」

残された問題 §

「これで野猿峠ハイキングコースの話はおしまい?」

「だいたい終わりだろうが別の疑問も出てきた」

「それはなんだい?」

「京王風土記1の全体地図、実は高幡不動駅から百草園を通って多摩川を渡って中河原駅まで続くハイキングコースが描かれている。これは気になるね」

「なんだって? 多摩川を渡っちゃうのかい?」

「そう。気になる。渡し船か橋か」

「謎は尽きないわけだね」

「聖跡から京王多摩川に至るハイキングコースも描かれているしな」

「謎は尽きないね」

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