- 56 対決!円堂VS豪炎寺!!
- 57 奇跡のチーム!ザ・カオス!!
- 58 炸裂!ファイアブリザード!!
- 59 ついに来た!エイリア学園!!
- 60 エイリア学園の正体!
本当は58話まで見る気だったが、勢いで60話まで見てしまった。
第57話から第59話は本放送当時の録画データとDVDの両方があったので、DVDを鑑賞。
大まかな流れ §
円堂達は帝国学園で特訓してデスゾーン、デスゾーン2を修得します。
そこに、プロミネンスとダイヤモンドダストの混合チームであるカオスが挑戦してきますが、途中でヒロトが乱入して試合を中断させていきます。
その後、ヒロトが瞳子を姉と呼んでいることが知られてしまい、瞳子監督の正体への懸念が発生します。
しかし、全員が謎の答を知るために富士山麓行きに参加します。
そこで、エイリア学園が存在せず、実際には吉良財閥の兵器研究施設があったことが明らかになります。
サブタイトル §
帝国学園特訓編にふさわしいサブタイトルを考えました。
「帝国に来た!」
まあそれはともかく、最後の感想、ラスト・デス感想を書きましょう。
ラスト・デスゾーン問題 §
今回、デスゾーンはチームの違いによってタイミングが異なることが示されていますが、だったらイナダンのラスト・デスゾーンはどうなのでしょう。染岡、吹雪、ヒロトで打っていますが、ヒロトは本来別チームです。たぶん、チームごとのタイミングに違いを意識しなくて良いように改良したデスゾーンがラスト・デスゾーンなのでしょう。
アニキキャラ、弟キャラ §
立向居は弟キャラ。
津波はアニキキャラ。
合性がもの凄く良いですね。
逆にいえば、円堂は立向居のアニキにはなれなかったことになります。
円堂はみんなのキャプテンです。立向居の憧れるスーパーGK円堂の未来形ではなくなってしまったと言えます。
若おかみは小学生!劇場版に負けない §
吹雪の回想に既視感があると思ったら、若おかみは小学生!劇場版ですね。
車に乗っていて一瞬で親を失って精神にトラウマを埋め込まれるのは若おかみは小学生と同じ展開です。若おかみは小学生の場合は死んだ人間が見えるという形でトラウマが暴走しますが、吹雪の場合は死んだ人間と二重人格になって苦悩します。
(きっと次に若おかみは小学生!劇場版を見るときは、グローリー水領の車の助手席でトラックを見て呼吸困難になるおっこが【女吹雪】に見える)
そこで思ったのですが、若おかみは小学生!劇場版の破格に優れた物語の組み立ての【自動車事故のトラウマ】という部分に関して、それに匹敵するものは何かと言えば、【脅威の侵略者編の吹雪の物語】であったとは言えないでしょうか。
ちなみに、若おかみは小学生!劇場版において、ピンふりが果たした立場に相当するのがおそらくアフロディですね。
アフロディ退場の理由 §
アフロディはカオス戦で無理をして身体を痛めてチームを離脱します。
なぜでしょう。
スマートなアフロディらしからぬ行動です。
おそらく、アフロディがいたときの雷門は最強チームです。
どうして自分から雷門を抜けるようなことをしたのでしょうか。
ハタと気付きましたが、アフロディはわざと離脱せざるを得ないようなプレイを行ってFWに穴を開けたのではないでしょうか。それはリカに出番を作るため……ではなく、吹雪を復活させるためだったのではないでしょうか。
とすれば、アフロディの意図は勝利よりも吹雪の救済です。
もっとも、ヘブンズタイムを破られてヤケになって無理なプレイをしただけとも考えられますが。
最後の指示 勝ちなさい §
瞳子監督の最後の指示「勝ちなさい」
格好いいですね。
それ以上言わない無口さ。
そこが瞳子監督の良いところ。
サッカー技でロボット排除 §
考えてみるとサッカー技でロボットを排除すると思えばイナダンと同じですね。
雷門夏未の特異性 §
雷門夏未だけは子供でありながら大人の世界に足を突っ込んでいます。何しろ理事長代理ですから。夏未の言葉は理事長の言葉と思ってもらっても良いのですよ。
だから、瞳子監督に意見するのは雷門夏未であることが多い。
円堂が壊れたときも瞳子監督に話しかけているし、最後にヒロトが弟とはどういうことかと詰問しているのも雷門夏未です。
まとめ §
吹雪復活以外のだいたいの流れは完結して雷門が最強チームに限りなく接近してきましたね。立向居がムゲンザハンドを修得し、円堂達がデスゾーン2を修得したことで、チームはほぼ完成形になります。
あとは、アフロディが抜けた穴に吹雪が入れば最終完成形です。
最後のまとめ §
最初に見始めるときに、脅威の侵略者編でおおむね瞳子監督参加から離脱まで見ると漠然と決めていたので、第27話の瞳子監督参加から、富士山麓でイナズマキャラバンを降りるまで見たことになります。一応、これで【完】と言うことで良いでしょう。
その間に達成されたことは以下です。
- 瞳子の魅力が分かった
- 津波の魅力が分かった
- 塔子の魅力が分かった
- 木暮の魅力が分かった
- 吹雪の魅力が分かった
- 立向居の魅力が分かった
- デザームの魅力が分かった
究極的にまとめると、こうでしょう。
- 瞳子監督がとても重い十字架を背負いつつ最後まで子供達が進むべき道を示し続け、全速で走りきった物語
紆余曲折があり、ミスも多いし、最後は響木から「黒幕はおまえだ」とまで勘違いされて驚いてしまう瞳子監督。しかし、それも人間的な魅力。
実はこの脅威の侵略者編は、円堂主人公の子供世界の物語と、瞳子主人公の大人世界の物語の二段構えの構成になっていたと言えます。通常は円堂の物語をみんな見ます。瞳子の物語は折りたたまれて隠されています。瞳子の物語は見ても分からないように隠された裏物語です。だから瞳子は無口です。親切な説明台詞はありません。ですが、瞳子にだけ注目した者だけが微妙な表情の変化で波瀾万丈の物語を読み取れます。結末を知った上で2回目に見る大人だけが発見できる物語です。そうではない場合は、コクを出すための隠し味、ダシとして機能します。
残された問題は、響木はどこで瞳子と出会い、なぜ雷門を瞳子に託すことを決意したのかですが、そこは描かれていないので良く分かりません。ただ、作中で響木は瞳子をあまり理解していません。あまり理解していない女性にチームを託したのはなぜでしょう。想像が膨らみますね。
さて、今回は瞳子監督を見ようと思って見て瞳子監督を堪能したわけですが、もう1つ重大な発見がありました。
それはイナズマキャラバンというバスの発見です。
イナズマキャラバンはイナズマTMキャラバンとは全く別のデザインです。
- デザインが古めかしくて渋い
- より大型である
- 床の高さが高く、ドアから階段で上がる感じになる
- 車輪が六輪 (TMは四輪)
- 後部車外に引き出すキッチン内蔵
- 運転主は古株さん
- フェリーにも乗った
- 屋根の上で少年達が星空を見た
- 北海道から沖縄まで行った (移動範囲は走れ!ケー100にも負けてないぞ)
イナズマキャラバンの確かな存在感と格好良さを見ると、メカデザイン出身の宮尾佳和監督の確かなセンスが分かりますが、それはそれとして、ストーリー的な揺るがない太い軸をきちんと入れる確かな人間描写、演出力があることも分かります。
作品に魅力があることは間違いありません。
しかし、作品が成功したのかは若干の疑問が残ります。
【悩める奴等の落ち込み】をちょっと赤裸々に描きすぎていて、熱血超次元サッカーアニメのイナズマイレブンとしては少し【違うものになってしまった】という感はあります。しかし、それではその問題は解決可能であったのかと言えばそれも分かりません。何しろ、初登場時のエイリア学園は圧倒的に強すぎて普通の意味で切り崩せるような相手ではありません。普通に行けば挫折者が続出することは避けられないだろうし、ご都合主義で互角に対抗させれば話が薄っぺらになってしまいます。そもそもゲーム版からストーリーの大枠を変更しないとすればできることは限られます。その意味ではかなりよくやったと考えたいと思います。
オマケ §
脅威の侵略者編ではありませんが、流星ボーイの次にエンディングに使われる雄叫びボーイ WAO!。この歌を最初に聴いたときは何だと思いました。雄叫びがどうした。つまらんぞと思いました。しかし、雄叫びと対になって【悩める奴等の落ち込み】が入った瞬間、「これだ!」と思ったわけです。【雄叫び】の裏側に【落ち込み】があるわけです。どちらも「お」で始まっていて韻も踏んでいます。最高ですね。
というわけで、脅威の侵略者編とは敵も味方も【悩める奴等の落ち込み】の物語です。どちらも勝たねばならぬ宿命を背負っていますが思い通りに勝てません。決着すら付かない引き分け、中断も多い。【雄叫び】が無情にもすり抜けてしまう世界です。風丸なんかゲームでは負傷で離脱ですが、テレビアニメだと精神的な挫折で離脱です。
だからこそ、そこにテレビアニメ版脅威の侵略者編の奥行きと魅力があります。
これを、脅威の侵略者編的に言い直せば【涙の数だけ流星ボーイ】です。
最後のオマケ §
ついでに言えば、脅威の侵略者編の【親切に説明しない】という特徴は宮崎駿監督の【ハウルの動く城】に近いと言えます。ハウルの動く城は、【見たらみんな納得するけど、どうしてそうなるのか説明せよと言われると解釈が割れる】という【理屈で説明されていない描写】が多いことが特徴ですが、脅威の侵略者編も同じです。敵サイドで起きていることは意味ありげな少数の台詞があるだけで何がどうなっているのか説明がほとんどありません。種明かしのシーンですら、政府要人向けのプレゼンテーションを傍観しているだけであまり分かりやすい説明になっていません。
であるからこそ、【もう1回見たら違うものが見えるのではないか】という期待感が産まれ、もう1回見てしまったわけです。