2021年06月20日
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山本五十六の遺骨は甲州街道を通って多磨霊園に運ばれた・当然下高井戸も通ったはずだ

Written By: 川俣 晶連絡先

 【あいぼりー特別号 京王線・井の頭線 むかし物語 総集編】に、甲州街道を運ばれる山本五十六の遺骨を沿道で見たという体験談が載っていましたので少し調べてみました。

 本当に甲州街道を通ったのか。どう通ったのか。

 NHKの報道映像では、芝の水行社から日比谷の葬場まで徒歩と騎馬で隊列を組んで移動するところしか分かりません。

 以下のサイトはもう少し詳細に書いています。

14時30より日比谷公園から溜池、赤坂見附、紀伊国坂、四谷見附を通過し、新宿から甲州街道に向かい多磨霊園まで運ばれ、その沿道は途切れることなく市民が参列した。6月18日、分骨の遺骨は郷里の長岡へ出発した。

 日比谷公園から赤坂見附、四谷見附などを経由して新宿にいたり、そこから甲州街道で多磨霊園まで行ったことは確かなようです。日比谷公園出発が14:30です。5月の日没は18:30前後ですので、明るいうちに多磨霊園に到着すると仮定すると、4時間しか時間がありません。日比谷公園と多磨霊園は直線距離で約22キロ。時速4キロで歩いたと仮定すると、4時間で歩ける距離は16キロ。足りません。徒歩では無理そうなので、自動車移動したと考えておきましょう。では、どの程度のスピードなのか。仮に平均時速20キロ程度で走ったと仮定すると1時間程度で到着すると思われます。しかし、納骨の儀式のために現地で1時間程度を見込んでも、まだ時間が余ります。割とゆっくり車を走らせた可能性もあります。このあたりはもう少し調べた方が良いところですね。

まとめ §

 甲州街道は、江戸時代の参勤交代で通る大名はとても僅かでしが、お茶坪道中が通りました。甲州街道は東京オリンピック1964のマラソンも通りました。それに加えて国葬の山本五十六の遺骨も通ったとすれば、なかなか面白い道ですね。

余談 §

 上記ページに以下のように書いてあります。

'43.4.18 山本五十六戦死。翌日遺体が発見される。同.4.20 海軍首脳や遺族に戦死が伝えられる。同.5.21 国民に発表。同.5.22 戦艦「武蔵」に乗せられた遺骨が帰還。同.5.23 遺骨が東京駅に到着。

 山本五十六の遺骨は戦艦武蔵で日本に戻ったようです。最前線で激闘中に、わざわざ最強の戦闘艦を使って運ぶ意味があったのでしょうか。どうも勝つことよりも、葬式を優先したようにも思えます。これは本当に勝つ気があったのでしょうか。どうしても運びたければ飛行機で運べば良いし、飛行機なら一瞬で到着するのですぐ機材を戦場に戻せます。それ以前に、そもそもわざわざ護衛を付けて運ぶ意味があったのでしょうか。戦勝の後で運んでも良かったはずです。あるいは、分散して運んでも良いです。実際、上記ページには【6月18日、分骨の遺骨は郷里の長岡へ出発した】という記述があって分割されています。生きた身体と違って遺骨ならいくつにも分けられます。分散して本土に運べば運悪く一部が失われても大半は到着するでしょう。それでは駄目だったのでしょうか。駄目だったのでしょうね、当時の日本は。負けるはずです。

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