今日は、東京都写真美術館の、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館帰国展を見てきました。
ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展 日本館のおたく:人格=空間=都市の再現展示です。
それはいかなる惨状であったか §
おそらく、これを仕掛けた森川嘉一郎氏の意図とは全く正反対に、私の感想はオタクという文化の惨状、未来の無さ、崩壊の予感を効果的に示す展示であったと感じました。
雑然と無個性なものが集積され、そこには「主体」の存在があまりに希薄です。もっと言えば、オタクの部屋の展示などには、本来あるべき生身の身体を持ったオタクの生活感が作為的に消去されているとも感じられます。模型で表現された多くのオタクの部屋に、自分の後ろの者達が「床が見えている、嘘くさい」と話をしていましたが、私も思わず声に出して同意しました。これは、オタクの部屋ではなく、森川嘉一郎氏が理想として描く世界でしかないのでしょう。生々しい生身の身体であるとか、思い悩む精神を持った主体としての人間が不在である世界です。しかし、それはリアルではありません。
昨日読み終わった「おたく」の精神史の感想と絡めて、そのことがより強く感じられました。
それ以前にも、モデルグラフィクス 2005年1月号の感想で、否定的な評価が多いことについて述べていますが、駄目さ加減が自らの目で見ることで良く分かった気がします。
オタクの惨状を補強する1時間30分待ち §
驚く無かれ、チケットを買ってから会場に入るまで、行列で1時間待たされました。
それで終わりではありません。
オタクの部屋の再現コーナーのみ極めて混雑しており、更に30分の行列で待ちました。
こんなにも待たされる、というのは、ある種の惨状であるような気がします。しかし、真の問題はそこではなく、大人しく黙々と並んで待っているオタク達の従順さにあるように感じられました。彼らはあまりにも従順すぎます。「馬鹿野郎、こんなつまんない展示のために、1時間も待ってられるか」という怒りのムードがもっとあるのが自然だと思いますが、そうではありません。それは、オタクの惨状の一部として認識されるものではないか、と感じました。
ちなみに、私がなぜ1時間+30分を黙々と並んだのかと言えば、その理由はヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館について、一言意見を言うための立場を確保するためです。見ないで帰ってしまったら、自信を持って一言が言えませんから。その一言を言うためのコストとして、1時間+30分の待ち時間は、払うに値する代価であったということです。でも、一言は言えても、二言は言えないかな。って、既に二言以上語っている? 失礼しました~ (汗。
会場で並びながら思ったこと §
本当なら、ここで主役であるはずのオタクの写真がでかでかと掲示されているべきではないか、と思いました。充実感を身体で表現し、楽しげな表情を見せ、カメラに向かってポーズを取るオタク達の写真がバーンと大きく示されてこそ、オタクの価値がアピールできるような気がします。しかしそういうものはありません。
それは、オタクが「自ら見る」が「見られる」ことがない「箱男」であるという病理の反映なのでしょうが、展示イベントとしての不自然さ、いびつさを感じさせます。
オタクの部屋の模型にもオタク本人の模型は配置されていません。
つまりは、アピールすべき主役不在ということです。
印象の要約 §
この展示の印象を要約すれば、永遠に静止した時間の中で、けして成就されない希望だけが再生産され続ける不毛の世界、という感じでしょうか。
ともかく、極めて強い無時間性を感じさせる世界です。
生々しい生身のオタクの存在感が、不自然なまでに消去されていることが、尚更無時間性という印象を強化しています。
足が疲れて撤退 §
1時間+30分も立ったまま並んだので、本当に疲れました。
他にも写真美術館には気になる展示がありましたが、そのまま帰ってしまいました。
リファクタリング §
非常に印象的だったのは、延々と階段で待っている時、自分の前に並んでいる男性が、「リファクタリング―プログラムの体質改善テクニック」を読んでいたことです。少しは広めるために手助けした本なので、それが読まれているのを目撃できたのはちょっと嬉しいですね。