ちゃんと読んでいるわけではない、というかかなり部分的かついい加減に読んでいますが。
それでもハッとする文章に出合うので感想を書いておきます。
最近、おたくという存在に対して、少し認識を改めるようになって来ています。おたくの問題点を指摘するだけでは全く不十分であると思うようになってきたわけです。つまり、おたくの言動と、おたくが内面的に抱える問題は一致していないのではないか、と考えるようになってきたわけです。
おたくは、自らが内部に抱える問題を上手く表明するための言葉を欠いているために、時としてあまりに子供っぽかったり、あまりに奇矯であったり、あまりにナイーブであったりする言動を取るものの、それを持って真実のおたくであるとするのは無理があるのではないかと。むしろ、上手く表明できず、それゆえに自分でも上手く把握できない屈折した内面的な問題を抱えて苦しんでいる存在では無かろうかと。
そんなことを漠然と考えている時に以下の文章を見ました。
斎藤環
破瓜型病跡システム「オンライン小説、あるいは文化的誤受信による三幅対」
p290
『電車男』のヒットが奇妙なのは、読者として「おたく」を想定しつつも、最終的には「現実へ還っていく」、すなわち「現実の彼女」を手に入れることで、「おたく」をやめる可能性が示唆されている点である。要するに、リアルな彼女を手に入れられずに呻吟している仲間達から励ましを受けて、しかし仲間達を裏切るように、電車男は「おたく」に訣別していくのである。これが「泣ける」ハッピーエンドエンドたりうるところに、「おたく」の屈折した自意識が見事に反映されているのだが、この点についても今回は深入りしない。
ここで疑問があります。
これを読んで皆さんはどう思いますか?
当然、異論がいろいろあると思います。
ご意見は、testml4で待っています。(この話題に関するスレッドはこちらです)
ちなみに、想定される正解や結論はありません。価値があるのは、上記文章に対して、どのようなリアクションがあり得るか、という部分だと考えています。
本書の他の感想:
感想その1『個人宛メールを偽装する無差別spamを真に受ける人がいる理由』
感想その3『大塚英志、斎藤環を二重構造の激しい言論攻撃で挑発す?』
感想その4『ああ、つまり問題の本質はそういうことであったのか!!』