2005年03月26日
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旧芝離宮恩賜庭園

Written By: 川俣 晶連絡先

 今日は、旧芝離宮恩賜庭園に行ってきました。

 ここを選んだ理由は……、あまりありません。

 健康のためにたくさん歩くという目的しか決まっていませんでした。

 行き先を決めずに電車に乗った後で、どこに行くかを決めようと思ったところ、手持ちの地図にはいくつかの候補地の詳細な位置が載っていないことが分かりました。そして、たまたま、まだ立ち寄っていない旧芝離宮恩賜庭園の場所ははっきりと載っていました。それが理由で、旧芝離宮恩賜庭園に行くことにして、JR山手線で浜松町まで行きました。

旧芝離宮恩賜庭園旧芝離宮恩賜庭園 [300x225] [600x450] [750x562] [1000x750] [1632x1224]

 近くの浜離宮の方を間違われることが多いようなのですが、入り口の近くには、「1周約20分! 大名庭園を満喫」と書いてあって、明らかにムードが違いますね。

1周約20分! 大名庭園を満喫1周約20分! 大名庭園を満喫 [300x225] [600x450] [750x562] [1000x750] [1632x1224]

 実際に歩いてみた感想としては、浜離宮よりこちらの方がずっと好感を感じました。もちろん、こちらの方が狭いし、外部の建物もよく見えてしまうのですが、それでもこのムードの方が好きですね。

 むしろ、それゆえにスカッとして気持ちよいというか。

謎の石柱 §

 芝離宮にあって、浜離宮にないもの。

 それは、この謎の石柱でしょう。

 この石柱の由来は、江戸時代から既に謎であったようです。

謎の柱謎の柱 [300x225] [600x450] [750x562] [1000x750] [1632x1224]

 何も知らずに、今日になって足を運びましたが、ここが気になってすぐに訪れず、今になって訪れたのは正解だったようです。

 なぜなら、去年の秋より前では分かっていなかったことがあったようだからです。

 2004年の10月ごろ(だったと思う)の新聞が張り出されていて、そこに、この石柱の正体が判明したという記事がありました。

 石柱前の掲示も、以下のように改められていました。

この石柱は、小田原北条家に仕えた戦国武将、松田憲秀の旧邸から運ばれた門柱です。

ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室の柱に使われていたといいます。

 小田原北条家に仕えた戦国武将といえば、徳川に負けた敗者ですから、敗者にまつわる由来は途中で受け継がれずに消失するのもやむを得ないのかも知れません。

 しかし、このような事例があると、関東史を徳川史観で解釈することの危うさがあらためて感じられます。たとえば、江戸は徳川家康が来るまでは何もなかった、というような、理詰めで考えるとあり得ない話がまことしやかに語られる事態に一石を投じている……のかな?

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