2005年04月18日
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アニメブームの終末を現実として意識するとき! 2005年とはその年になるのか!?

Written By: トーノZERO連絡先

 宇宙戦艦ヤマトから始まったとされるアニメブーム。

 意図せずしてその始まりの目撃者となった私としては、その終わりを見届けたいと思っていました。いい大人になってまでアニメを見るという恥ずかしい行為(笑)を続けている理由はそこにあります。

 しかしながら、数年で終わると予測していたアニメブームは終わる気配を見せず、何回も「まだこんなに素晴らしい作品を送り出す力を秘めていたのか!」と驚かされることが繰り返されました。

 ですが、2005年4月の今、もしかしたら本当にアニメブームは終わるかも知れない、という予感を抱くことができました。

 それについて記します。

アニメブームの私的定義 §

 私がアニメブームだと思っている現象とは何かについて書きます。

 アニメブームとは、アニメが多数制作され、放送される現象を意味しているわけではありません。

 というのは、宇宙戦艦ヤマトをアニメブームの起点とするなら、それ以前にも極めて多数のアニメが制作、放送されていたためです。

 そえゆえに、アニメブームとは、数を問題にする問題ではなく、むしろ内容を問題にする現象であると言えます。

 ではヤマトはそれまでのアニメとどう違うのか。ヤマトに影響されたそれ以降の作品と、ヤマト以前のアニメはどう違うのか。

 おそらくは、ヤマト以前のアニメの多数派は、30分間の玩具のCMであり、内容も大人が見るに堪えない子供騙し、という感覚が強かったと思います。そうではない作品もありますが、おそらく多数派はそんな感じでしょう。

 しかし、大学生がファン層の中心だったと言われるヤマトのブームは、大人を相手にアニメで勝負できるのだという新しい可能性を切り開いたわけです。

 ……というような抽象的な話はさておき、もっと具体的にアニメブーム以前と以後を区別する基準を見出したいと思います。

 私の感覚で言えば、アニメブーム以前と以後の境界線は、マジンガーZと宇宙戦艦ヤマトの間に引かれます。マジンガーZを毎週見ながら、それによってどうしようもない不満を抱え込んで爆発寸前の危機的状況を、ヤマトによって解消されたという感想があるからです。

 では、マジンガーZとヤマトはどこが違うのか。

 いったいマジンガーZの何が不満をもたらしたと言えるのか。

 不満点を整理してリストしてみます。

  • 何らリアリティがない人型の巨大ロボットが、存在意義を葛藤することもなく平然と登場する
  • 子供が努力することなく特権的なヒーローの座に着く
  • 日本や地球を巻き込んだ戦いであるにもかかわらず、極少人数の私的な闘争に収束する
  • 私的な闘争に収束する結果、社会や組織の存在感やリアリティが大きく後退する

 これらの特徴は、けしてマジンガーZ固有のものではなく、まして当時だけに見られたものではないと言うことは補足しておく価値があるでしょう。このような作品は、アニメブームの中でもしばしば見られました。ただ、それが多数派ではなかったというだけです。

 さて、ヤマトはこれらの不満をストレートに解消してくれまいた。今の視点から振り返れば、煮え切らない部分も多々ありますが、それでもマジンガーZに比べれば天国、別天地と感じられたことは間違いありません。

 つまり、アニメブームとは、上記のようなマジンガーZへの不満を解消するムーブメントである、というのが私的な解釈です。

 ちなみに、これらの条件はロボットアニメに特化しすぎていて、他のジャンルに適用しにくい面があります。そこで、もう少し一般的な表現に要約してみます。

 アニメブーム以前の状況とは、以下のように要約されます。

  • 子供の世界観に矮小化された世界と、その世界に相応しいスケールで展開される子供騙しのドラマ

 そして、アニメブームとは、以下のようなものであると私的に定義したいと思います。

  • 大人の鑑賞に堪える、あるいは子供相手であってもけして子供をバカにしない作品が、制作されるアニメ全体の中で多数派である状況

 なお、ここに出てくる「大人」「子供」とは、年齢による分類ではなく、社会的な役割を担う精神性によって識別される概念とします。つまり、二十歳を超えようと中年になろうと、自分が特権的な存在であると感じ、社会の中の自分という意識が希薄な人間は「子供」に分類されるということです。

致命傷3連打 §

 念のためにあらかじめ断っておきますが、以下に3つの作品をアニメブーム終末を予感させたものとして取り上げますが、それが本当にアニメブーム終末を意味するものであるかは分かりません。それぞれ第1話のみを見た感想しか元にしていませんが、アニメとは化けるものであり、終わりまで見たら別の感想を持つ可能性も大いにあり得ます。また、見たつもりの第1話の中にも見落とし、勘違い、忘却があり得ます。そのような不完全なものとしてお読み下さい。

 また、アニメブームの終末とは、アニメの終末ではないことにも十分に注意して下さい。そして、私が感じる不満を、全ての視聴者が共有している訳でもなければ、共有すべきと主張するわけでもないことに注意して下さい。私に興味があるのは「このアニメブーム」が終わりを迎えるのかどうかと言うことだけです。それとは別に、私の趣味とは違う「別のアニメブーム」が起こり、それが発展支持されるという可能性もあり得ます。そのような別のブームの勃興を否定する意見を述べたいわけでもありません。ただ、そのような状況が起こるとしても、けして1つのアニメブームが続いたと認識されるべきではなく、2つのブームは別個のものとして区別される必要があります。なぜ区別されねばならないのかと言えば、極私的に、私が不満を蓄積するようなアニメを、私が好きであると誤解されるのは非常に困る事態であるからです。(実際、かつて、そういうこともありました)

 という前置きはさておき、実際にアニメブームは終わりかも知れないと思わせた3つの作品の第1話の視聴感想を書いていきます。

発端・創聖のアクエリオン §

 創聖のアクエリオンを見た時に、ロボットの合体描写などの極めて良心的なこと驚きました。しかし、そこに良心性を発揮させたことで評価できるのは、20年前の話だな、とも思いました。つまり、あまりに時代錯誤だなという印象を持ちました。つまりは、マジンガーZを代表作とする巨大ロボット プロレス アニメの極めて良心的な発展形と言えるものの、マジンガーZに対して抱く致命的な不満の数々も極めて「良心的」に継承してしまっています。

ジャブ・ゾイド ジェネシス §

 ゾイド ジェネシスを見た最初の感想は、まるでFINAL FANTASY Xみたいだな、というものでした。村の様子や、海底から古い機械を引き上げる展開など、まさにそれを彷彿とさせます。まあ、似てしまうのはやむを得ない面があるので、そこは目くじらを立てる点ではありません。

 しかし、致命的にFINAL FANTASY Xと異なる点がありました。それは、引き上げた機械が自分で操縦者を選ぶということです。FINAL FANTASY Xで引き上げられた飛空艇は、アルベド人によって修理され、彼らの乗り物として活用されます。けして、機械が乗り手を選んだりしません。しかし、ゾイド ジェネシスでは、引き上げたゾイドが自分で乗り手を選びます。多数の立派な大人達がいるにも関わらず、ゾイドは子供を選択します。少なくとも、その選択の根拠、あるいはリアリティを第1話では描いていないように思えます。つまり、典型的な「子供が努力することなく特権的なヒーローの座に着く」パターンです。

フィニッシュブロー・交響詩篇 エウレカセブン §

 交響詩篇 エウレカセブンは、先に見た人から「良心的な作品だ」と聞いていたので楽しみにしてみました。確かに、これは良心的に作られた作品です。しかし、表面的な良心性と裏腹に、私の内面は空っぽのままでした。あるいは、不満がそれと気付かず内面に蓄積されていったと言っても良いでしょう。

 この作品の主人公の少年は、自分の立場に不満をもっています。こんな街を出て行ってやる、と思いつつも出ていく方法が分からず、サーフィンに似た遊びに現実逃避しています。そのような彼を出口のない日常から救うのは、血筋であったり、なぜか向こうから根拠も明示されずに飛んでくる特別な巨大ロボットであったりします。しかも、中には可愛い女の子までいて、何もかもが努力抜きで向こうから飛び込んできます。

 1つ、致命的に違和感を感じたのが、この作品ではロボットがLFOと呼ばれていることです。アニメブームの外と内のロボットアニメを峻別する1つの特徴として、ロボットをロボットと呼ぶか、あるいは特別な名称で呼ぶか、という相違があります。つまり、アニメブーム外のロボットは単にロボットと呼ばれることが多いのに対して、アニメブーム内のロボットの多くは「モビルスーツ」「ラウンド バーニアン」「アーマード トルーパー」といった作品固有の名前を与えられています。この作品は、ロボットに「LFO」という作品固有の名前を与えている点でアニメブーム内のロボットアニメの特徴を持っていますが、それにも関わらずアニメブーム外のロボットアニメの特徴も多く引き継いでいるように見えます。

 というわけで、ゾイド ジェネシスまでは自分が見ているものが何か分かっていませんでしたが、エウレカセブンを見てやっと明確に気付きました。

 この3つの作品は、明らかに私が見たいと思っているアニメの範疇にありません。

 これらの作品は、私が不満を抱く以下のような特徴を、全てではないにせよ、多く持っています。

何らリアリティがない人型の巨大ロボットが存在意義を葛藤することもなく平然と登場する §

 ゾイド ジェネシスのみ人型ではありませんが、他の作品はこれに該当します。

 たとえば、ミリタリーテイストを加味してロボットの馬鹿馬鹿しさを中和することに成功しているファーストガンダム第1話を見ると、ロボットを単にロボットとして出すだけでは駄目だという葛藤が感じられますが、これらの3作品にはそのような葛藤が感じられません。

子供が努力することなく特権的なヒーローの座に着く §

 いずれの3作品も、主人公となる少年が特権的な座に着くために努力したという形跡が見られません。(エウレカセブンのみ、第1話の段階ではまだ特権的なヒーローにはなっていませんが……)

 たとえば、ファーストガンダムの第1話で、アムロはガンダムに乗り込みますが、それは特権的なヒーローになったことを意味しません。他にパイロットがいないからアムロが動かす余地があったと言うだけの話です。プロの軍人のパイロットがいれば、彼でもガンダムを動かせることが明らかに描かれています。しかし、たとえばゾイド ジェネシスでは、主人公の少年はゾイドによって選ばれた存在であり、既に立場は特権的です。

日本や地球を巻き込んだ戦いであるにもかかわらず、極少人数の私的な闘争に収束する §

 日本や地球を舞台にしていない作品も含まれますが、基本的には極少人数の私的な闘争という側面が強く感じられます。たとえば、戦闘は極少数のロボットによって成立しており、それを担う少人数の人間達の人間関係が濃厚に描かれます。

私的な闘争に収束する結果、社会や組織の存在感やリアリティが大きく後退する §

 創聖のアクエリオンには、そもそも社会の存在感が感じられませんでした。

 エウレカセブンでも、少人数のチームがロボットを飛ばして戦っているシーンがありますが、彼らの背後にある社会や組織の存在を意識することができませんでした。

 しかし、最も問題なのはゾイド ジェネシスです。第1話で、村の男達は総出で、一生懸命、海底からゾイドを引き上げますが、それはいったい何のためか。男達は、それを動かせれば自分のものにしたいという台詞を口にしますが、こんな田舎の村でゾイドを所有していったいどんな意味があるのか。つまり、引き明けに費やした共同体の膨大な手間と時間に見合う効能が、ゾイドの個人所有にあるのか。その部分がしっかりと描かれていないように感じられたので、ドラマは極めて空虚でリアリティのないものに感じられました。つまりは村組織における労役負担の公平性と価値、そして経済的感覚の希薄化です。

 ちなみに、ゾイドの前作、フューザーズは、そのあたりがしっかりと描かれた良作でした。主人公が所属するチーム、マッハストームはゾイドを使った様々な仕事の依頼を引き受けていて、主人公もそれらの仕事をこなしていました。そして、ゾイドが大きく壊れれば、修理費用で事務の仕事をしているホップが頭を抱えるような描写もあります。つまり、最低限の経済的なリアリティが作品に付与されていた結果、いかに子供っぽくゾイドが合体して見せようと、大人の鑑賞に堪える作品であり続けたと言えます。その点で、フューザーズとジェネシスは、同じゾイドという名前を冠しながらも、全く異質な作品と感じられます。

他にもあるアニメブーム終末の兆し §

 オータムマガジンをずっと見ている読者なら気付くと思いますが、私が感想を書くアニメの本数が激減しています。

 それだけでなく、感想を書いていないが見ているアニメの数もかなり減っています。

 たとえば、2005年3月までは、日曜日と言えば感想を書くアニメとして、ゾイド フューザーズ、レジェンズ、マシュマロ通信、ワンピースと揃っていました。しかし、2005年4月以降は、ワンピースだけしかありません。

 明らかに「これは!」というアニメが激減しています。

 それゆえに、私自身が、少しアニメに対して白けた気分になっている事実もあります。

 それは逆ではないか、という意見があるかも知れません。白けたので、従来までなら喜んで見たはずのアニメをつまらないと感じているのではないか、と言うことです。

 そうではないことは、はっきりと示すことができます。

 このような状況でも気になるアニメはあって、それには目を通しています。

 たとえば、感想を書くに値するとは評価していないものの、極上生徒会は気になっていて毎回見ています。(ぷっちゃんが気になるのだ!)

 つまり、アニメが気になって、それを毎週見るだけの感性は依然として残っているにも関わらず、ぜひ見なければならないと思うだけのアニメが激減しているのです。

 アニメは多いが、見たいアニメは極めて少ないというのは、ずっと昔、アニメブーム以前に見た状況であるような気もします。

 そういう意味でも、アニメブームは終末し、アニメブーム以前の状態に構造的に近づいているという可能性も考えられます。

アニメブームの終末はアニメの終末ではない §

 アニメブームの終末はアニメの終末ではありません。

 全体として、アニメ界がパワーを持って迫ってくる私的な感じが無くなるだけで、個別には飛び抜けて優れた作品が存在します。

 むしろ、並に凄い作品が多数並んでいる状況(アニメブーム内)よりも、「これはとてつもなく凄いぞ!」という極めて少数の作品だけがたまに存在する状態(アニメブーム外)こそが、アニメを本当に楽しめる状況ではないかと思ってみたり思わなかったり……。

 とりあえず、平均レベルの低下が、極少数の飛び抜けて凄い作品を生み出しうる可能性については注目したいと思います。とりあえず、「B-伝説! バトルビーダマン 炎魂」のような真に飛び抜けて凄いアニメを見られるのは、平均レベルの低下のおかげなのかな、という根拠のない印象を受けています。

 以上は全て私の個人的な印象に基づく文章であり、内容の正しさや客観性を保証するものではありません。他の意見、感想を持つ方々がいるのは、当然のことであり、それらを否定する意図はありません。それらの違いは、印象の個人差です。

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