アニメブームの終末を現実として意識するとき! 2005年とはその年になるのか!?を書いたとき、アニメブームの終末論はこれ1本で終わる予定でした。
しかし、これを書き上げてから、いくつか見落としていたことがあることに気付きました。
それについて補足的に書き足します。
ご注意 §
このコンテンツは、アニメブームの終末を現実として意識するとき! 2005年とはその年になるのか!?の補足的続編であり、これを読んでいることを前提として話を進めます。これを読む前に、こちらを一読して下さい。特に、アニメブームの定義やマジンガーZという言葉の象徴的意味は、上記コンテンツに記されたものを使い、読者が自ら思う定義と食い違う可能性があります。
概要 §
「社会的ひきこもり」という現象の私的解釈から、その原因となる類型を示します。それが現在のオタクの類型の多数派であるという仮説を示し、その特徴が、上記コンテンツで示した「子供が努力することなく特権的なヒーローの座に着く」という特徴と共通することを示します。
このことから、アニメ業界がオタクを主要な顧客として誠実なビジネスを行うとすれば、必然的にアニメブーム以前の作品構造に回帰しなければならないことを示します。
つまり、アニメブームが終わることは、必然となります。
社会的ひきこもり §
社会的ひきこもりという現象があります。
斎藤環著の「社会的ひきこもり」などの書籍から私的に解釈、理解したこの現象は以下のように要約できます。これは極私的な解釈であり、正しい、あるいは適切であるという保証は一切無いことをお断りしておきます。
さて、社会的ひきこもりとは、ある人間が長期間社会的な活動から遠ざかることを言います。
このような問題が発生する背景に、その人物の自己評価と社会からの評価の食い違いが想定されます。つまり、自分はこんなにも優れた人間であるにもかかわらず、周囲は全くそれを理解せず、はるかにレベルの低い存在としてしか見てくれない、という状況です。
このような評価のギャップは、子供には典型的に見られるものです。子供は様々な形で社会と関わり、自分が自分で思うほど優れていないことを強制的に思い知らされ、評価のギャップは解消されていきます。
しかし、何らかの理由で評価ギャップを解消しうる社会との関わりを持たなかった者は、それが解消されない状態で成長します。
人間は成長すればするほど変化することができなくなります。従って、年齢が上がれば上がるほど、自分の評価を修正することが困難になり、つまり評価ギャップの解消は困難になります。特に中年になって以後は、ほとんど不可能と言って良いでしょう。
さて、評価ギャップを抱えたまま、もはや自分を劇的に変えることが出来ない年齢に達してしまった人間はどうすれば良いのでしょうか。社会に出ても、プライドを酷く傷つけられるだけです。心の致命的な痛みを回避するには、2つの方法があります。1つは、自分だけが賢く、他人はそれを理解できない愚か者であるというロジックを構築して痛みを緩和する方法。もう1つは、他人との関わりから逃れることで、これが社会的ひきこもりとなります。
社会的ひきこもりの背景にある問題 §
ここでは、社会的ひきこもりそのものは大きな問題ではありません。
それよりも、その背景にある認識ギャップの方が大きな問題を持ちます。というのは、ひきこもっていない者達にも、このような認識ギャップは幅広く存在すると考えるためです。
上記のように、彼らは痛みを緩和ために、自分だけが賢く、他人はそれを理解できない愚か者であるというロジックを構築して対処することができます。とはいえ、完全に自分だけでロジックを構築できるほどの賢さは備えていないことが多いと考えられるので(それほど賢ければ、認識ギャップを自力で解消できるだろう!)、ロジックの枠組みを外部から借用してくることが多いと考えられます。たとえば、オープンソースやJavaといったムーブメントは、認識ギャップを解消するためのロジックとして借用されることが多いものであると考えられます。つまり、オープンソース(Java)はこんなにも素晴らしいのに、それを理解できない他人よりも自分は賢い、という論旨に容易にすり替えることが可能であるということです。
このようにして、一見、ひきこもることもない普通の人間と見える者達が、社会的ひきこもりと等質のバックグラウンドを持ったまま社会生活を続けている状況は確かにあると感じられます。
仮にここでは、彼らを認識ギャップ温存者と呼ぶことにします。
認識ギャップ温存者の世界観 §
認識ギャップ温存者の世界観は、基本的に子供の世界観の構造が継承されたものです。
つまり、自分がその世界における特権的なヒーロー、絶対的優越者であり、世界を支配しうるという万能感が伴います。もちろん、幼い子供ではないので、世界を実際に支配できるわけではないことは分かっています。しかし、本来は支配できるはずだと漠然と確信していて、それが実行できない理由についてのロジックを持ちます。
支配できるという漠然とした確信は、当然、支配すべき対象領域、つまり世界を無意識的に認識します。しかしながら、知識や社会的な経験の不足により、それは現実の社会よりも矮小なものとなります。たとえば、世界が実質的に自分が住む町の数倍程度の大きさに感じられたり(それでも、本人はあまりに広大だと感じている!)、自分の生活を支える社会や組織の規模や複雑度も、遙かに小さいレベルに誤認している(それでも、本人は大きなものだと感じている!)可能性が考えられます。
このような特徴は、アニメブームの終末を現実として意識するとき! 2005年とはその年になるのか!?において、マジンガーZの特徴として記した4項目のうちの以下の3項目と類似するように思えます。
- 子供が努力することなく特権的なヒーローの座に着く
- 日本や地球を巻き込んだ戦いであるにもかかわらず、極少人数の私的な闘争に収束する
- 私的な闘争に収束する結果、社会や組織の存在感やリアリティが大きく後退する
努力することなく最初から特権的なヒーローとなることは、認識ギャップ温存者の世界観における当然の前提です。また、世界という広大な世界で起こる出来事が、身近で発生する極少人数の者達の問題と同レベルで認識されるのも、認識ギャップ温存者の特徴です。また、認識ギャップ温存者は社会や組織の存在感やリアリティを、ありのままに認識することができない(それを加工するロジックを通さねば心が傷ついてしまう)ので、それらは必然的に心の中での位置づけが後退させられます。
従って、ここでは、以下のような仮定を立ててみることにします。
- 認識ギャップ温存者はマジンガーZ(スーパーロボット型)のアニメを好む
オタクにおける2タイプの比率の変遷 §
ここでオタクの歴史的な話題を取り上げます。
アニメブームの原初、ヤマトブームの頃から感じていたことがあります。
それは、オタク(当時はまだこの呼称はない)には2タイプあると言うことです。
つまり、マジンガーZで満足できないがヤマトでは満足できたからヤマトを支持するタイプと、マジンガーZも面白かったけれどヤマトはもっと面白かったからヤマトを支持するタイプです。
これは、ヤマトをガンダムに置き換えるともっと分かりやすくなります。つまり、リアルではないスーパーロボットに辟易していたところにリアルなロボットが出てきて支持したタイプと、スーパーロボットも好きだがガンダムはもっと面白いスーパーロボットだから支持したというタイプです。
アニメブームの初期においては、前者が圧倒的に支配的であったと思います。人数比は分かりませんが、アニメ誌などに出てくる言説については、前者が支配的であったと思います。
そして、認識ギャップ温存者はマジンガーZ型のアニメを好むという仮説を正しいと仮定するなら、後者は子供か、あるいは洒落の分かる大人か、あるいは子供らしい心を大人になるまで保持してしまった認識ギャップ温存者と言うことになります。
さて、翻って今日の状況を見ると、この2つのタイプの比率は完全に逆転しているように思えます。つまり、リアルではないスーパーロボットに辟易した、というタイプは少数派に縮退しており、逆に「スーパーロボットも好きだがガンダムはもっと面白いスーパーロボットだから支持した」というタイプが多数派になっていると感じます。
その1つの証拠として、マジンガーZとガンダムが1つのゲーム内に繰り返し登場しているにも関わらず、そのことが問題であるという批判が全く浮上してこないことが上げられます。
愛される根拠が欠落した主人公 §
極私的に、最近オタク向けのアニメはつまらないものが多いと感じていました。
そのようなアニメの典型的なパターンとして、以下のような特徴があげられます。
- 美少女が多い
- 彼女らの大半がさしたる根拠もなく男性主人公を好いている
うる星やつらの諸星あたる以後、「愛される根拠が欠落した主人公」がラブコメの主役を務めるようになったという指摘はありますが、それでもあたるを愛したのはラムと初期のしのぶぐらいであり、まだしも歯止めが掛かっていたと感じます。しかし、最近のオタク向けアニメは、多数の美少女が、さしたる根拠もなく、みな男性主人公を好きになります。
このような傾向は、作品作りに対する一種の堕落であると漠然と思っていましたが、もしかしたら違うかもしれないと気付きました。
つまり、オタクの多数派が認識ギャップ温存者であり、彼らの世界観に最もマッチするような作品作りを行っているとすれば、上記のような構造は最善と言えるのです。
つまり、認識ギャップ温存者の世界観において、「私」とは努力することなく最初から特権的なヒーローであるわけです。従って、全ての女の子が「私」を好きになるのは当然のことです。むしろ、愛される根拠について語ることは、「私」の特権性、ヒーロー性に疑問を差し挟むことであり、それは視聴者に嫌な思いをさせ、作品から遠ざけることになります。オタク向けアニメがオタク相手のビジネスである以上、客に嫌な思いをさせることも、客を作品から遠ざけることも、好ましいこととは言えません。合理的に立ち回ろうとするなら、当然、上記のような特徴を持つ作品を作るのが必然となります。
誠実に顧客に奉仕する業界であり続けようとすれば §
私は、アニメブームの終末を現実として意識するとき! 2005年とはその年になるのか!?で取り上げた3つロボットアニメに驚かされたわけですが、ロボットアニメに限定せず、美少女アニメを視野に入れれば、既にアニメ業界の認識ギャップ温存者への適応は進行していたと言えます。
むしろ、ロボットアニメへの浸透が遅すぎたぐらいだと言っても良いでしょう。
ガンダムという偉大なリアルロボット作品を歴史上の転換点に持つロボットアニメの世界は、アニメの中でも特に硬派であり、認識ギャップ温存者向けの作品作りへの対応に最も頑強に抵抗したジャンルだったのかも知れません。
しかし、2005年4月の段階で、ついにロボットアニメも硬派を貫くことを止め、認識ギャップ温存者ための作品作りに転換したのだと考えることはできるでしょう。
つまり、ロボットアニメがファーストガンダム以来のリアル至上主義、あるいは作品性重視主義に終止符を打って方向転換せざるを得ない状況にまで追い込まれたと言うことです。おそらく、作り手の側には、このような方向転換に不服の人達もいるでしょう。しかし、オタクという客を相手にアニメを作るとすれば、方向転換は必然であると考えられます。
そして、この方向転換はヤマト以来のアニメブームの終末を意味しますが、それはオタクという客に奉仕するという強い必然性を持った出来事であり、むしろ終末は遅すぎるぐらいであったと言うことができます。
補足 §
以上の話は、全て多くの仮定や不確かな情報や認識に基づくものであり、正しいという保証は一切ありません。
それからもう1点補足すれば、未だにオタク相手ではない多くのアニメが作られていて、それらは上記の特徴を持ちません。それらのアニメは、別の未来を切り開いていく可能性があります。