2005年07月03日
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古川享さんのマイクロソフト卒業と、メインフレーム文化対パソコン文化の確執

Written By: 川俣 晶連絡先

 マイクロソフトの古川享さんが、マイクロソフトを「卒業」されました。

 ご自身のブログが再開され、そのことの挨拶が書き込まれています。

 さて、古川さんの卒業という報道に際して思ったことは2つあります。

 1つ目は、かつてMSKKに入社した時に面接された時の出来事(あまりに気さくで、ずっと古川さんだと気付かず、変な人が喋っていると思っていた)の回想。

 2つ目は、少なくとも日本におけるマイクロソフトの精神的な支柱の1つであった人物がマイクロソフトを離れると言うことが、最近感じている懸念と同じベクトルを示しているかのように思われたことです。より具体的に言えば、上記のブログの記事を見て、メインフレームという言葉が出てきたことに、あっと驚かされたのです。

 そのことをもっと詳しく説明しましょう。

 上記のブログ記事には、1979年に書かれたという古川さんの人生目標が書かれていますが、その導入部に書かれているのはメインフレームとマイコンの確執です。

 実は、マイコンではなくパソコンではありますが、最近のマイクロソフト、あるいは、パソコン業界に対して感じる私の懸念とはメインフレーム的な文化のパソコン界への浸食であり、メインフレーム文化とパソコン文化の確執です。

 ここでいうメインフレーム文化とは、ハードウェアとしてのメインフレームを扱う文化を意味しません。おおむね、分断、囲い込み、正しい知識の浸透の阻害、硬直化した技術、コミュニケーションの拒絶などを用いた利益の独占を意味する、と現在は捉えています。

 それに対して、マイコンあるいはパソコン文化とは、開放的かつ自由であり、誰もが新しい進歩を付け加えることができ、商才があればそこから金儲けも可能になる世界です。

 つまり、メインフレーム対パソコンという構造が重要ではないかと考えていたために、古川さんのブログ復帰第1号という重要な意味のある記事に、同じような構造の話が出てきたことに、あっと驚いたわけです。偶然にしては出来過ぎています。

パソコン文化の担い手とメインフレーム文化の担い手 §

 世間の評判からすれば全く矛盾したことを書けば、現実問題として自由なパソコン文化を担い、守護してきたのは誰かといえば、マイクロソフトだと考えています。

 たとえば、MS-DOSやWindows上でどんなソフトを開発して売っても(たとえエロゲーだろうと!)何のクレームもしてこなかった点は、いかにマイクロソフトが自由をユーザーに提供してきたかを示していると思います。(これは、けして当たり前のことではない! マイクロソフトが事実上OSを独占したから当たり前になったことに過ぎない!)

 まあ、OSを売るビジネスに関しては、ハードメーカーにいろいろと縛りを入れたりする話はあると思いますが、それはまた別の話ということで。

 さて、実はマイクロソフトは自由を奪ってけしからん、と批判してきたIBMであるとかOracleであるとかSun Microsystemsの方が、よほどメインフレーム文化的な存在だと考えています。

 一見して、彼らはWindowsよりももっと自由なLinuxやオープンソースを支持することで、自由を信奉しているかのように見えますが、彼らの主力商品はまったくオープンソースになっていません。特にハードメーカーに限れば、ハードが主力商品なので、ソフトの価値はゼロになった方が、ソフトハウスに牛耳られることがなくなり、かえって有利になります。

変わってきた雲行き §

 とまあ、こんな感じで、とりあえずOS選択の自由はさておき、OSを何にどう使うかという自由は、マイクロソフト製品を使っていれば悩む必要はない……と思っていましたが。

 最近は、少し雲行きが変わってきたように感じられます。

 マイクロソフトも、メインフレーム文化的なものに浸食されてきたように感じられます。(長くなるので詳細は略)

 メインフレーム文化は嫌いであるという以上に、メインフレーム文化が持つ利益囲い込み、コミュニケーションの拒絶体質は、私の立場そのものが奪われかねない危うさがあります。

 まあ、そういうわけで、最近では自社製品のLinux対応もせざるを得ないだろうと考えています。Linuxは好きではありませんが、せざるを得ないのです。

 これは、XMLデータベース開発方法論(1)序章、データ処理技法の地政学という記事の中で書いた「すべきである」対「せざるを得ない」という価値観の対比のうち「せざるを得ない」に該当するものです。けして、Linuxは素晴らしいから対応すべきである、という話ではありません。そうせざるを得ない状況に追い込まれつつあるのです。

結論的に言えば §

 一応、話をまとめなければならないので、強引にまとめましょう (笑。

 古川さんが1979年に書いた文章に引用されたマクルーハンの言葉を孫引きします。

すべてのメディアは人間のいずれかの能力 ― 心的,または肉体的 ― の延長である.

メディアは,環境を変えることによりわれわれの中に特有の感覚比率を作り出す.われわれの感覚のどのひとつが拡張されても,それは,われわれの考え方,行為の仕方 ― 世界を認知する仕方,を変える.

これらの感覚比率が変わる時.

人間も変わる ― M ・マクルーハン

 さて、現在私が問題であると認識している事柄をこの文章に当てはめて考えるなら。

 メディアの変化が環境を変え、それは人間を変えるという図式をここでは肯定しましょう。

 そのような図式で考えた時、パソコン文化とは、個々人がメディアの変化に主体的に関わることができる文化であると考えて良いと思います。一方で、メインフレーム文化とは、メディアのあり方を規定する段階が閉鎖的に行われ、既に変化させようのない (お仕着せ的に用意されたカスタマイズのみが許される)サービスだけが一般利用者に提供されます。

 このような構造は、サービスの主要な部分が利用者のパソコン上に存在しない(サーバ上に存在する)という、Webアプリケーションの時代によって補強されます。主導権は自分が所有するパソコン上に存在しないので、利用者はサーバから落ちてくるサービスをあるがままに使う以外に選択の余地がありません。

 つまり、個々人が各自のメディアの変化に主体的に関わることができず、必然的に環境の変化にも主体的に関わることができなくなり、結果として人間の変化に関わることもできなくなります。

 意図せずして、自分自身の変化まで見知らぬ人達に握られ、それに関わることができないというのは、面白くないよねぇ。うんうん、面白くない。

 とりあえず、以上がこの文章の強引すぎる(笑)まとめとします。

もちろん、こんなに単純な話では…… §

 もちろん、話はこれほど単純ではありません。

 どこかに悪の親玉的なメインフレーマーがいて、そいつを倒せば済む話ではまったくないし、パソコン文化の担い手やマイクロソフトが正義の味方という訳でもありません。

 それどころか、メインフレーム文化とパソコン文化は、明確に2つに分けられるものですらないでしょう。

 (そういう意味では、この文章は実は何の意味もない文章かもしれません)

 それでもまあ、何も意思を示さないのではコミュニケーションは始まらないので、わずかでも書いてみる価値はあると信じてみましょう。

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