2005年08月24日
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バイファムのロディ役声優と、新宿が光り輝くミニハイテク街だった頃の関係!?

Written By: 川俣 晶連絡先

 古川さんの書いた以下のブログを読んでいて、最後に補足的に書かれたことを見て、ふっと書いておきたいことが1つできたので、時間もないのに慌てて書きます。

 まず最初に、本筋と関係ありませんが、「肥満街道まっしぐら、誰かオイラを止めてくれぃ」という心情は非常に良く分かります (笑)。

 最近は、カロリーをコントロールして運動もして体重を落としていますが、猛暑の中ではそれも上手く機能しないことがあります。

 という話はさておき。

 ハッと気になった部分を以下に引用します。

先週コメントを書いてくれた、Nambaさんは早速Per Seに訪問しておられるようですね。

 Nambaさんと私は、とても古い付き合いで、新宿にあったパソコンショップに1977年ごろ、私が22歳で学生アルバイトの店員をしていた頃に、毎日小学校帰りの制服を着たNamba少年(多分、暁星小学校だったようなかすかな記憶)が毎日フロッピー・ディスクを紙の箱(Verbatim製)に10枚入れて、「今日もパソコン使わせてください」と、学校帰りにTandy TRS-80を使いに来ていたのです。その頃は、フロッピードライブ(80Kb)を搭載したメモリ32Kbのパソコンは40万円から100万円はしたので、小学生のNambaさん、フロッピー・メディアだけ買って(一枚3000円くらいしたかな)毎日パソコンショップの店頭デモ機を独占状態で何やらプログラムを書いていましたねぇ。お店ものどかなもので、「僕、将来コンピュータのお仕事でもするのかい?」なんて私も声をかけておりました。 その後、アスキー誌にライトペンの製作記事なんか書いていました。 めぐりめぐって、マイクロソフトで一緒に仕事をすることになったのだけど、今やマイクロソフト本社に勤務するようになったけれど、美味しいレストランには目が無いんだよね、ナンちゃん!! 何処か、また紹介してくださいね!!

Nambaさんとは…… §

 ここに書かれたNambaさんとは、私の記憶が間違いでなければ、初期の月刊ASCIIに記事を書いていた天才少年であり、同時に未だにマニアに評価の高いアニメ、銀河漂流バイファムの主人公、ロディ・シャッフル役の声優であり、マイクロソフトの研究開発部で本気で難度の高い開発の仕事に携わり、マイクロソフトの日本法人の電話応答のアナウンスも美声で吹き込んでいたその人です。

 MSKKの社員だった時代には、部署が全く違ったので(こちらはOS系、難波さんはアプリ系)、会う機会はほとんどありませんでしたが、みんなで昼食を一緒に食べに行ったときに等に軽く話をしたことがあります。

 どうだ、ロディの声優を話をしたことがあるのだぞ、羨ましいだろう……。

 という話を書きたいわけでは全くありません。

 このコンテンツの見出しに「バイファム」であるとか「ロディ」という言葉を入れたのは、単にタイトルでこのサイトを見に来る客層の人目を引くために過ぎません。

 こういうあざといタイトル付けをするのが、優れた編集者の資質というものらしいので、一生懸命修行中です (笑)。

 しかし本題は「かつての新宿」です。

Tandy RadioShack新宿店 §

 アメリカには、Tandy RadioShackという有名な電気店のチェーンがありました。

 ここは、パソコンの自社開発と販売も手がけており、初期のパソコンの御三家と呼ばれたApple-][、PET-2001、TRS-80のうち、TRS-80はまさにTandy RadioShack(=TRS)の製品ということになります。

 それとは別に、Tandy RadioShackというのは、電子部品を全て袋に入れて小分けして売っているということでも、電子工作少年の話題になっていた店でもあります。日本の秋葉原なら、部品はトレイなどにドサッと入れてあって、そこから1個ずつ取って会計してもらうのが普通なので、かなり文化が違うという印象がありました。

 さて、実はこのTandy RadioShackは日本で店舗を展開していたことがあり、新宿にも店がありました。

 そこに行くと、まさに電子部品が袋入りで売っていたのを見て、驚いた記憶があります。もっとも、品揃えは非常に少なかったのですけどね。

 そこで、パソコンのセミナーをやるというので、のこのこ出向いていったことがあります。その時に講師をしていたのが、まさに「子供」としか言いようのないNambaさんだったわけです。

 さて、明らかに日本の秋葉原的文化には収まらないアメリカンな店舗の中で、やはり秋葉原ではあり得ないような少年を講師とするセミナーが成立したというのは、当時の新宿という街が持つ独特のムードのためではないかという気がします。

実は秋葉原より凄かった1970年代末期の新宿 §

 実は、新宿で特異であったのは、Tandy RadioShackだけではありません。

 他に、アスター・インターナショナルや、新宿ムーンベースといった凄い店が新宿に並んでいたのです。

 特に、私自身は新宿ムーンベースによく通ったので、ムーンベース派の新宿マイコン文化圏の出身と言っても良いと思います。

 どのあたりが秋葉原と違うのかというと。

 秋葉原のマイコン文化の発祥は、おそらくNECのビットインであり、TK-80なのだろうと思います。これは、むき出しの基盤、16進キーとLEDの世界です。TK-80はTK-80BSと合体してディスプレイへの表示能力とフルキーボードを獲得しますが、やはり基盤はむき出しのままです。

 それに対して、新宿ムーンベースは、アメリカで最初にヒットしたマイコンであるAltair 8800をドーンと置き、CRTを使ったターミナルをつなぎ、それで当時圧倒的に流行していたSTAR TREKをプレイできるようになっていました。Altair 8800はがっしりとした筐体を持つS-100バスマシンで、基盤は見えないし、汎用バスでいくらでも拡張できました。そして、入出力はTTYなどを想定していたので、最初から文字で入出力するのが当たり前。極初期からマイクロソフトのBASICが使えたので、ハンドアセンブルで16進数を打ち込んでいたTK-80などとはまるで別次元の世界でした。

 つまり、これが電子工作少年文化の延長線上にしかない秋葉原文化と、異文化への窓として機能した初期新宿文化の決定的な違いと言っても良いと思います。

しかし本当に凄いのは…… §

 Tandy RadioShackにはTRS-80があり、新宿ムーンベースには、Altair 8800やPET-2001や、時にNorth Starのマシン(FDDを内蔵しているS-100バスマシン)なども置いてありましたが、この時代で最も優れていたと思うのはSol-20というS-100バスマシンです。スマートな一体型のボディに高級感のあるキーボードが付き、ごつい箱でしかない他のS-100バスマシンとは一線を画し、逆にS-100バスの確かな拡張性が他の格好いいだけのマシンと一線を画していました。

 (ちなみに、なぜ古川享という名前をスルーできないのかといえば、彼がこれを所有しているからです。たとえPC-8801mk2SR model30を100台手に入れようと、気持ちの上でSol-20の1台に及びません)

 そして、ほとんどの場合、このこだわりは理解されません。秋葉原文化の出身者には、触れるどころか、名前を知る機会すらなかったマシンかもしれません。

 しかし、新宿には確かにそれがあり、新宿マイコン文化圏に属する者達は、それを通してアメリカの飛び抜けた最先端の息吹を感じることができたのです。

新宿マイコン文化圏の崩壊 §

 このような新宿マイコン文化圏は、1980年代に入ってから急速に崩壊したように思います。

 崩壊した理由は明らかです。

 マイコンが徐々にパーコンを経てパソコンと呼ばれるようになり、裾野が広がるにつれ、日本語への要求が高まったからです。アメリカ製のパソコンを無理に日本語化した製品よりも、日本のメーカーが日本人のために製造し、手厚くサポートする機種の方が求められるのは当然のことです。

 ユーザーのニーズが圧倒的に日本製パソコンへと流れていったとき、アメリカへの窓として機能していたショップが劣勢になるのはやむを得ないところでしょう。

念のために言えば…… §

 とはいえ、私は秋葉原にもよく行きました。

 ビットインはいつも満員なので、通路の向かいの日立のRAMに行ってH68/TRをいじったり、ニューカクタX1の東芝のショールームに行って12bitマイコンをいじってみたり、LAoX(だったか?)で松下の4bitマイコン(プログラミング出来ず、入力データは音楽再生にしか使えない)を触ってみたり、いろいろ経験があります。

 アメリカ製のレアなマシンも、秋葉原で見たことがあります。T-Zoneのあたりに昔あったトヨムラでは、バリーアーケードというゲーム機のようでいてBASICも使えるマシンを見たり。Atari-800も秋葉原で見たし、名前がよく思い出せないのですが、なぜか横80文字以上表示できる不思議なマシンも見たことがあります。

 そのような雑然とした面白さが秋葉原にあったことは事実です。

 しかし、秋葉原は、モノは受け入れても、文化は受けれていなかったような気がします。

というわけで、言いたいことは §

 つまりですね。

 秋葉原だけが日本の唯一のハイテク都市であり、常にそこが最高であるという考え方には、大いに疑問があります。

 秋葉原には負の側面も多くあるし、何もかも常に全てが秋葉原に集まっているというわけでもありません。

 実は、今の私にとって、秋葉原はあまり足を踏み入れたくない街です。

 この傾向は、いわゆる「萌え」の街、オタクの街になる前からの傾向です。

 最終的に秋葉原に行かねばならない理由はQualestというパソコンショップの存在にありましたが、それが秋葉原とはやや距離のある神田に移転してからはその理由も消失しました。

 更に、新宿でも大抵のパソコン関連パーツを買うことが出来る(CPUだろうとマザーだろうとベアドライブだろうと)という状況に至っては、まさに秋葉原に足を踏み入れる理由が消えたと言っても過言ではありません。

 そう。

 実は、新宿という街は、違う意味で実用十分な買い物を可能な街に復帰しているのです。そして、それは新宿がミニ秋葉原になったということを意味しません。ソフマップやDOS/Vパラダイスのような秋葉原の店が進出しているのと同時に、もともと新宿に根付いているヨドバシやさくらやもあり、全体として秋葉原とは異なるムードを作りだしているように感じられます。

 そして、私は個人的に現在の新宿文化の方が好ましいと感じています。

 というわけで、私は秋葉原が好きだとか決めつけないように!

 今の秋葉原は好きではないし、萌えも嫌いだし、メイド喫茶も行く気は全く無いけれど、それ以前の秋葉原もけして好きというわけではないのだよ!

 (あ、でも、ラジオセンターとラジオデパートと信越……じゃなかった秋月とジャンク屋は嫌いじゃないよ!)

それはさておき §

 古川さんがバイトしていた新宿のショップはやはりTandy……?

 とすると、その頃に顔を合わせている可能性があり得るなぁ。

 古川さんと私は接点がありそうで無いのに、ひょんなところに接点があったりするからドキドキしますね。

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2005年09月16日NambaさんFrom: ミューラァ不在基地

バイファムのロディ役声優と、新宿が光り輝くミニハイテク街だった頃の関係!? 単にタイトルでこのサイトを見に来る客層の人目を引くために過ぎません。 はっはっはっはっ ひっかかりました・・・・・・・・ 記... 続きを読む

2005年08月24日[デジタル]新宿From: 新どっこいしょ日記

川俣さんのオータムマガジンより[http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20050824124343] あー、そうだったんだ。というか、そのころ新宿なんて簡単に行けなかったし、電気=秋葉原、という図式が出来上がっていたから見向きもしなかっただろうな。 そういう頃の新宿の空気って感じてみたかったけど、残念。 なにしろ、秋葉原だって、年に何度か気合を入れて行く様なところだったし。まぁ、しいて言えば年に何回か、コミケなどの同人誌即売会に上京する地方の人と同じ雰囲気かも。  今 ... 続きを読む

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