魔法は実在する。
呪文を唱えるだけで不思議なことが起こる。
そのような意味での魔法が実在することは、疑いようのない事実なのだ。
しかし、科学はそれを認めない。
魔法など存在しない、迷信だと切り捨ててしまう。
その理由は、良く分かる。
科学とは、再現性を重視する。同じ状態を作りだし、同じ手順を行えば、誰でも同じ結果が得られるというのが再現性だ。それがあって、初めて「発見」は科学によって認められる。そして、それが科学の強さであることは間違いない。どれほど科学を疑う者がいても、彼の前で必ず再現させることができるのだから、説得力は高い。
しかし、魔法は再現性がない。いや正確に言えばあるのだが、魔法は人によって発動条件が異なるために、誰がやっても同じ結果になる再現性が存在しないのだ。
しかし、特定の人物に限れば条件を確定することは不可能ではない。確定させられた条件により発動される魔法は、100%確実に効果を発揮する。つまり、魔法にも再現性は存在するのだが、人を変えても再現させる条件を明確にすることは極めて困難であるため、多くの科学者は魔法の存在を認めない。それゆえに、ここでは科学者のことは忘れよう。魔法はあると信じる読者だけを相手に語ることにしよう。
さて、諸君が興味を持っているのは、やはり魔法を発動する手順だろう。
まず、魔法は呪文を必要とする。
呪文は2つの条件を満たす必要がある。
1つは、これから発動させる効果を、明確な形で表現する文章になっていること。たとえば、「ホロレチュチュパレロ」という呪文で「人参」が出現する魔法使いが存在するとすれば、それは「ホロレチュチュパレロ」が魔法の言葉なのではなく、術者の母国語で「人参より来たれ」という意味であるからだ。本書の読者である日本人の諸君であれば、もちろん日本語で呪文を唱える必要がある。「ホロレチュチュパレロ」という呪文で「人参」が出現することはあり得ない。
もう1つは、呪文が機能を示す特定の音の配列に合致していること。この音の配列は、同じ機能であっても、人によって異なるので、魔法使いの真似をして同じ呪文を唱えても、同じ魔法を発動させることはできない。
さて、賢明なる読者諸君は既にお気づきだろう。
そう……。大多数の魔法は、この2つの条件を同時に満たすことができない。ある機能を持つ音の配列を呪文として唱えたとき、それが日本語として発動する効果を表現している可能性は極めて低い。
たまたま偶然、その組み合わせを発見した者は魔法使いとなるが、彼はあらゆる魔法を行使できるわけではない。偶然発見した組み合わせで発動する魔法しか行使できないのだ。
つまり、魔法使いに修行は無意味と言っても良いだろう。魔法をいくら使っても、使用できる魔法の種類は増えない。また、いくら修行をしても、それで魔法使いになることはできない。
もし、魔法使いになるために可能な作業があるとすれば、思い付く限り、あらゆる願望を声に出して言い続けることぐらいだろう。もしかしたら、その中には、偶然に呪文として機能するものがあるかもしれない。極めて低い確率ではあるが……。
ここで1つ補足をしておこう。
世界の法則を覆すかのように見えることもある魔法。その力の源泉はどこにあるのだろうか。諸説あるが、それを為し得るのは絶対唯一の創造神しかあり得ないという説を私は支持したい。つまり、魔法の圧倒的な力は、そのように考えねば辻褄が合わないということである。そして、創造神は慈善事業家ではなく、全ての生き物に平等の愛を注いでいる。魔法の行使者にだけ愛を注ぐわけではないのだ。その結果、魔法には代償が要求される。たとえば、魔法で大きな幸運を呼んだ場合は、それとバランスを取るために、大きな不幸を招き寄せるのだ。
その結果として、魔法を使った者は、けして幸福にはなれない。いや、むしろ確実に不幸になると言っても過言ではない。
それでも、多くの人々が魔法に魅せられ、それを追い求めるのはなぜだろうか。
きっと、不幸になることよりも大きな問題を誰もが抱えているからに違いない。
かく言う私も……。
チャイムの音を聞いたトロ子は、本を閉じた。
この地方の者達が放課と呼ぶ休み時間は終わり、授業が始まる……。
馬鹿な本を読んだと彼女は思った。魔法など、あるわけがない。
体格の大きな男性教師が教室に入ってきて、教壇の前に立った。
彼は野太い声で言った。
「喜べ! 延び延びになっていたマラソン大会が来週の月曜に決まったぞ!」
教室内には、不平を示す声が満ち溢れた。喜んでいる者など誰もいない。
だが、トロ子は違った。声も出なくなり、恐怖にすくみ上がったのだ。
前回のマラソン大会の恐怖が蘇った。
学年全員で走る5kmのマラソン。それは、引っ込み思案で運動も好きではなく、しかもいつも動作がトロいと言われるトロ子にとって地獄でしかなかった。もちろん、建前上は、ギブアップすれば保険医に介抱してもらえることになっている。しかし、この学校の教師達は、どれほどトロ子がへたばっても、常に激励の言葉に偽装した強制的な命令を投げ続け、ギブアップを認めようとしなかった。結局、トロ子は、最後から2番目の順位でゴールインした。いや、失神寸前でゴールに走り込んで、そのまま倒れてしまったのだ。
そのトロ子に教師が声を掛けた。
「やればできるじゃないか。どうだ、完走するっていうのは気持ちいいだろう!」
その言葉はトロ子の耳には届いていたが、悪寒に包まれて失神寸前のトロ子の心には届いていなかった。
その後、トロ子は1週間熱を出して寝込み、学校を休んだ。
教師達がやりすぎたのは間違いない。そのことを、これで彼らも分かっただろう。トロ子はそう思って、登校した。
そうではなかった……。
登校したトロ子に浴びせられたのは思いも寄らない言葉だった。
「あれしきのことで寝込むとは情けないぞ」と教師は健康的な、それでいて知性のカケラもない笑みを浮かべながら脳天気に言った。「来年のマラソン大会までに体力を作っておけ。そして、来年も完走の快感を味わおうじゃないか!」
何が「来年も」だ。それではまるで、今年の完走が快感だったような言い方ではないか。
もちろん、気弱なトロ子はそれを口に出して言うことはできなかった。
だから、翌年のマラソン大会が、道路の使用許可の都合でできないという知らせを聞いたときは、心底ホッとした。
あの馬鹿げた苦行に付き合わされることはないのだ。
しかし、その安心は無惨に打ち砕かれた。
今年もマラソン大会は行われてしまう。
何とかしなければ……。トロ子は焦った。しかし、上手い対策が思い浮かばなかった、
そうこうしているうちに、マラソン大会の前日の晩になってしまった。
トロ子は、知っているあらゆる神様にお祈りし、知っているあらゆるおまじないを行った。
そして、最後に魔法の本を思い出した。
あれほど馬鹿にした本だが、切羽詰まると藁にでもすがりたい。
呪文が成立することを祈って、いろいろなお願いを声に出して言ってみた。
「あした、雨になあれ」「あした、マラソン大会が中止になあれ」「あした、急病になってマラソン大会を休めるようになあれ」「あしたは完走を強制する教師が全員休にになあれ」「あした、……」「……」
思い付く限りのお願いを並べた後、前回のマラソン大会を上手く回避できたクラスメートのことを思い出した。彼女は、父親の急な転勤のために、マラソン大会に出ることなく引っ越していったのだ。
そこで、トロ子は最後に付け加えた。
「あした転勤になあれ」
それから、トロ子は布団に潜り込んだ。
浅い眠りに落ちたトロ子は、家の中の騒々しさに目が覚めた。
起きてみると父と母が慌てふためいていた。
「大変よ、トロ子!」と母が言った。「急に父さんの転勤が決まってね。明日にはもう引っ越しをしなくちゃならないの。悪いけど、あなたはもう明日から学校は行けないわよ」
トロ子は、驚いた。ついさっきまで、転勤の話などこれっぽっちもなかった。それなのに、呪文を唱えたあとすぐに効果が出た。つまり魔法は実在したのだ。
トロ子は、心の中で小躍りして喜んだ。
引っ越しは大変だったが、ほとんどは引っ越し業者がやってくれたし、マラソン大会に比べれば全く苦にもならなかった。新しい学校への編入試験も軽くパスした。トロいと思われていても、トロ子の学力はけして低くはない。
何も問題はない。
ただ1つ、トロ子が大切にしていたぬいぐるみが引っ越しのドサクサの中で行方不明になったことを除けば。
それは、トロ子の心に、とても大きな悲しみを残した。
しかし、これは魔法の行使が要求する代償なのだろう。
トロ子は、これだけの代償を払う価値があったのだろうかと自問自答した。結論は出た。もちろん、払う価値はある。というよりも、いかなる代償であろうと払わねば恐怖に狂っていたのだから、やむを得ないと思った。
一度味を占めると、もう歯止めは効かなかった。
トロ子は、学校にどうしても行きたくない出来事があると、ためらうことなく呪文を唱えた。
すると、すぐに父親の緊急の転勤が決まった。
そして、いつも大切なものが失われた。
これを繰り返すうちに、トロ子の恐怖への耐性は落ちていった。
少しでも怖いとすぐ呪文は唱えるようになった。
多くの大切なものが失われ、トロ子の私生活は地味で貧しいものになったが、だからといって恐怖に打ち勝つ心は戻ってこなかった。
12回目の転勤の際に、母が死んだ。
引っ越し続きで過労状態であったのに重い家具を運ぼうとして車道に転び、トラックにはねられてしまったのだ。
トロ子は母の死に恐怖した。これが魔法の代償として奪われた大切なものであることは明らかだった。トロ子は責任を感じ、必死に母の死の穴を埋めるため、家事をこなした。それは不思議と苦にならなかった。
だが、それから一ヶ月と経たないうちに、トロ子は何回目かの転校先の学校で、思わぬ台詞を聞いた。
「来週はいよいよマラソン大会だ! 去年同様に、全員完走を目指すぞ!」
トロ子は、悩んだ。
もう一度呪文を唱えたら、次に奪われるのは父かもしれない。母に続いて父もいなくなれば、トロ子は一人きりだ。それは、とても嫌なことだった。
だが、マラソン大会前夜になると、トロ子は恐怖に負けた。
「あした転勤になあれ」
呪文は唱えられた。
そして、絶対唯一の創造神は、全てにおいて正当な魔法の呪文を受け付け、まさにその効果を発揮した。
父の転勤はいつも通り確定し、トロ子はかつて母が担っていた役目を背負って引っ越しのために走り回った。
そして、新居に到着し、引っ越しの挨拶に近所をまわっている途中で父は倒れた。
救急車が呼ばれ、病院に運び込まれたが、長くはなかった。
それは過労死であるとされ、トロ子の父の勤務していた会社がマスコミから糾弾された。あまりに非常識なほどに転勤が多すぎることが判明したからだ。
だが、それが会社のせいではないことをトロ子は知っていた。
トロ子は、叔父夫婦の家に預けられた。
自分がこの家では余計な存在だということは良く分かっていたので、熱心に家事を手伝い、よく気が付くよい子だと言われるように務めた。
しかし、学校でどうしても耐え難い出来事に出会った。スケバンから因縁を付けられたのだ。「あした、みっちり思い知らせてやる」という台詞にトロ子は恐怖し、再び呪文を唱えた。
だが、転勤は発生しなかった。そもそも自営業の叔父に、転勤はあり得ない出来事だった……。
魔法はもう無効になった……。トロ子はそう考えた。
そのとき、トロ子が大切にしていた携帯ストラップがトロ子の机の中から消えていたが、家事の手伝いに忙しいトロ子はそれに気付くこともなかった。
翌日、おそるおそるトロ子が登校してみると、スケバンはとっくに昨日のことなど忘れており、トロ子が呼び出されることもなかった。
トロ子はホッとした。
夜の手伝いを終え、狭い自分の部屋に戻ったトロ子は、窓から夜空を見上げた。
すると、天空から白い服を来た男が降りてくるのが見えた。
背中に羽。頭に光る輪。そして、顔はトロ子の父親であった。
「まさか、パパ!?」とトロ子は叫んだ。
「私が見えるのか! そうだ、パパだよ! おまえの守護霊になって戻ってきたんだ!」とトロ子の父はトロ子を抱きしめた。
「守護霊……!?」
「そうさ。たとえ死んでも、やる気のある者には様々な仕事がある。誰かの守護霊になって、その人を守るのも仕事の1つだ」
「でも……、どうして今になってやって来たの? パパが死んずいぶん経つわよ」
「これまでは他の人の守護霊をやっていたからね。でも、そこでの実績を評価されてね。次は誰の守護霊になるか選んで良いと創造神様に言われたので、ならば娘の守護霊になりますとお願いしておいたんだ」
「そうだったの! 嬉しいわ、パパ!」
「でも不思議なことに……」とパパは首を傾げた。
「え?」
「昨日の夜になって、急に転勤が決まってね。本当ならずっと先になるはずが、今日、トロ子の守護霊になることができたんだ……」
トロ子は、魔法がまだ生きていることをはっきりと確信した。
(遠野秋彦・作 ©2005 TOHNO, Akihiko)
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