論語
紀伊國屋書店

2006年07月02日
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論語 金谷治 岩波書店

Written By: 川俣 晶連絡先

ご注意 §

 以下の文章は感想文であって、論語を読みながら私が感じたことを書き記したものです。

 このような主張が正しいであるとか、広めるべきと考えているわけではありません。

 むしろ、間違っていると思って読むのが健全な態度でしょう。

読み方 §

 日本語訳を中心にざっと読み通しました。

 とはいえ、ほとんど頭の中には残っていません。

 なぜ残らないのか、その理由は後に書くコンテキスト性の欠落にあります。つまり、文章間のコンテキストが無いために、全体を通した印象が残らないのです。逆に、個々の文章は数が多すぎ、かつ、短すぎるので、それも印象に残りにくいと感じます。

感想その1 §

 論語というのは、断片的な小さな文章のアトランダムな集まりです。

 連続して掲載されている個々の文章の間に関連性はありません。

 しかし、個々の文章はそれを読むだけでは解釈できません。唐突に出てくる人名などは、それが誰であるかを知っている必要があるし、発言者のその時点での立場を知らないと解釈できないものもあります。また、反語的な表現になっていて、書かれた言葉とは反対の意図を述べている文章もあります。

 つまり、個々の文章を読み取るためには、明示的に言葉で書かれていない様々なコンテキストの知識を必要とします。おそらく、これらの言葉が記録された時点で、これらを読む読者はそのようなコンテキストに関する十分な知識があるという前提を持つことができたのでしょう。

 さて、問題はここからです。

 実は、そのようなコンテキストに関する知識の大半は、既に失われていると考えるのが妥当ではないかと思います。なぜかといえば、論語に関する解釈として、一定しない複数のものが存在し、それが1つの収束する見込みもないように感じられるからです。

 おそらく、本書を読んだムードだけから考えれば、論語という文書が成立する時点で、既にコンテキストは失われつつあったのではないかと思います。

 つまり、論語とは、読むことによって本来の意図を正しく読み取る可能性が永遠に失われた文書であると感じました。これが、私の論語に関する第1の感想です。

 これは、客観的なコミュニケーションの基盤としての「論語」の存在を前提とする全ての行為が無意味であるという結論を意味します。

 それにも関わらず、論語が何かの価値や規範の基準たり得るかのような主張が見られることは、以前にインターネット知の欠陥というアイデアに関するメモ Version2で述べた「コンテキスト性の欠落」という病理の存在が示唆されます。

 実際、「強い無時間性」という特徴を持つ非コミュニケーション的な主張が飛び出しがちであるという点で、儒教的な発言と、インターネットにどっぷり使った層の発言には共通点があるようにも感じられます。

 つまり、「論語」とは知的病理の温床そのものであり、健全な知性を求める者が読むものではない……ということです。

 というわけで、これが1つの結論ですが、最終結論ではありません。

 驚きのどんでん返しは、このあとすぐ!

 チャンネルはそのままで!

感想その2 §

 それにも関わらず、論語を読み、それに価値を見出す人は少なくありません。

 それはなぜでしょうか?

 コンテキストから切り離された断片的な文章は、読み手によって何らかのコンテキストを設定されることで、意味のある文書として受容されます。(逆に言えば、恣意的なコンテキストを設定しないで読もうと試みた私は、多くの文章から意味を読み取ることができなかった)

 つまり、論語を読むという行為は、論語という素材を用いて、読み手が新しい物語を創出する行為に他なりません。

 論語の中に、深遠なる真理を簡潔に書き記した思慮深い文書を見つけて深い感銘を受けるという出来事はしばしばありそうですが、なぜそれほどまでに深い感銘を与えることができるのかといえば、その理由がここにあると考えられます。

 つまり、ある人が論語を読む際に、読み手の世界観に沿ったコンテキストが暗黙的に設定されるために、読み手は論語という文章を経由して、自分の世界観を読み取るのです。そして、世界観と論語に書かれた言葉が、上手く噛み合った瞬間に、読み手は自分の世界観を権威ある古典の言葉であるかのように読み取ることができ、感銘を受けるというわけです。

 このような読み方は、「論語読みの論語知らず」という言葉が生まれる理由をよく説明しているように思われます。論語を読み、その素晴らしさに打ち震えている……というだけでは、様々な資料と格闘して客観的に論語を読み解こうとしている研究者から「無知」を笑われるだけでしょう。

 しかし、そのような状況を理解した上で、「自分と対話する手段」として論語を読むことは悪くないような気がします。自分の中に屈折して埋もれている何かを引き出すために、論語を読むという手順を活用することはできるでしょう。その場合の解釈は、あくまで自分だけのものであって、他人は別の解釈をしているかもしれない……という状況を正しく理解して行う限り、有益な行為となるかもしれません。

 さて、まだ話は終わりません。

 都市帝国を倒しても、まだ超巨大戦艦が出てくるのがどんでん返しのお約束です。

 チャンネルはそのままで待て!

感想その3 §

 個人レベルで論語を読む有益性はともかくとして、論語あるいは儒教は一種の統治システムのツールとして利用されてきた経緯があります。

 しかし、あっさりとコンテキスト性の欠落という知的病理に落ち込ませやすい論語が、そのようなツールとして本当に有効なのでしょうか?

 ここで、逆転の発想が出てきます。

 統治の安定性を維持するという観点からは、むしろ統治の対象となる者達をコンテキスト性の欠落という知的病理に突き落とした方が有利だと言えます。

 まず、コンテキストを設定することで論語はいかようにも解釈できるという状況は、論語という古典を1文字たりとも変えずに、統治者が都合の良いように解釈することが可能であることを意味します。自分のやりたいことをやりつつ「古典を守って統治している」と主張することができます。もちろん、その解釈に異議を唱える者達も出てくるでしょうが、それは重大な問題にはなりません。なぜなら、既にコンテキストが失われて正しい解釈など誰にも分からないからです。解釈の正しさは、俗世間の権力の強さによってふるい分けられ、強者の解釈が正しい解釈として残ります。

 また、副次的な効能として、コンテキスト性の欠落がもたらす「無時間性」という特徴は、統治者にとって大きなメリットを生みます。つまり、常に世界は同じ状態を繰り返し、過去、現在、未来を区別する意味が消失した状況は、「昔の統治者の方が良かった」であるとか「より良い社会を得るために未来を改革しよう」といった主張の説得力を弱めるということです。

 そのように考えると、論語を編纂した者達が、そうと知った上でコンテキスト性が欠落した文書をまとめあげた……という意図を想定することができます。もしかしたら、統治のツールとして便利かつ強力となるように、あえてコンテキスト性を欠落させた文書を作成したのではないかと。

 ここまで来ると、感想というよりも空想の領域に入る話なので、この感想文はこのあたりでおしまいです。

 ただ、少なくとも論語編纂に関わった者達の知性は甘く見ない方が良い……というように感じました。ちなみに、昔の人より現代人の方が賢いなどと思い込むのは、とても甘い考えです。

オマケの感想 §

 古典に一応目を通しておくと、いろいろ分かって良いことがありますね。

 内容を理解できたとはとても言えませんが、読むことは非常に有益だったと感じます。

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