「その名前は捨てたんだ」
古い友人はそう言った。
「パーツ2199と呼んでくれ」
彼はそう言った。
僕の嫌な予感は的中した。
彼は、今流行りのアレの部品に組み込まれてしまったのだ。
え、アレとは何かって?
決まっているじゃないか。
『快楽システム』だよ。
システムの部品として組み込まれることを承諾する代償として、快楽の享受が保証されるというアレだ。
そこでは名前も失われ、指示された通りに誰かに快楽を与え、その報酬として自分も快楽を与えてもらえるというわけだ。
継続的な恋愛関係も無ければ、固有の人格も認められない。
つまり、そこには愛や人間の尊厳はない。
これは何もアンチ派だから言っている訳ではないよ。『快楽システム』への参加案内に堂々と書かれている言葉なんだ。あのシステムの連中は、堂々と表立って、「人間の尊厳」などに意味はないと言い切っているからね。
つまり、僕の前にいるパーツ2199を名乗るこの旧友も、人間の尊厳を捨てたことになる。システムから指令を受ければ、指令通りの相手に快楽を与えに行かねばならないし、快楽を与えられる指示が他のパーツに出されれば、その指示通りに快楽を受け入れねばならないのだ。
ちなみに、相手が若い美女とは限らない。むしろ、そうではないことが多いらしい。時には相手が男であることすらあるという。それでも快楽を拒むことが許されないのが、『快楽システム』なのだ。まさに「人間であることを捨てる」としか言いようがない。
それにも関わらず、メンバーは増え続けているという。全くの謎としか言いようがない。
しかし、『快楽システム』は直接的に僕には何ら危害を加えない存在だ。たとえ、旧友が『快楽システム』の中で男との快楽行為を体験し、男色に開眼したとしても、私を性的に襲う可能性は無い。パーツがパーツである限り、システムの指示は絶対なのだ。そして、パーツ以外との快楽行為が指示されることは存在しないのだ。
それよりも僕にとって問題なのは、明らかに暴力団としか思えない当たり屋に引っかかり、膨大な慰謝料を請求されていることだ。『快楽システム』と違って、暴力団は部外者に積極的に関わろうとする。
しかも、問題をややこしくしているのが、僕自身のミスだ。うっかり、自分の非を認めてしまい、書類まで書いてしまったのだ。弁護士も、これは覆すのは難しいと言って逃げ腰になるぐらいだ。気が動転していたのだが、自分でもバカなことをしたと思う。
そういうわけで、旧友との話は自然と僕の抱える問題に流れていった。
話を聞くなり、旧友は言った。
「ああ、あそこね。僕も当てられたことがあるよ」
「えっ」と僕は絶句した。
どう考えても、旧友は僕以上に暴力団にむしられたに違いない。旧友は昔から気弱で他人に逆らえない性格だし、その上『快楽システム』などという人間の尊厳を捨てるシステムに参加してしまうほど精神力が弱い存在なのだ。まして、暴力団にきちんと意見出来るわけがない。
ところが彼の答は違った。
「態度がおかしいからね。よく確認したら、怪我も何もないことが分かったよ。念のため、すぐ病院に行って精密検査をしよう……と言ったら逃げ出したよ。要するに最初から演技だったと言うわけだね」
僕は動転して彼らのペースに乗せられたというのに、彼は冷静に対処したというのか。
これはどういうことだろう。
『快楽システム』に参加してしまうような彼の方が精神力が強いとでも言うのだろうか?
「じゃ、行こうか」と彼は言った。
「え、どこに?」と僕は慌てて質問した。
「その暴力団の事務所さ。話を付けに行くんだ」
「は、話って!?」
「君の慰謝料を無しにしてくれって話だよ」
僕はぽかんとして彼の顔を見つめていた。
明らかに無謀な話に思えた。
『快楽システム』の仲間を呼んで集団で行くのかと思ったが、そうではなかった。
僕と二人ですらなかった。
僕を外で待たせて、彼は一人で雑居ビルの中にある事務所に気楽な態度で入っていった。
そして、30分ほどして、やはり気楽な態度で出てきた。
「話は付いたよ」と彼は言って、持っていた紙を僕に渡した。
それは、僕の立場を決定的に悪くしていた書類だった。
「この場で破いて捨ててしまえよ」と彼は言った。
僕は、もちろんそうした。
僕らは居酒屋にいた。
お礼は受け取らないという彼に対して、僕はどうしてもお礼がしたいと強く迫った。結局、居酒屋で一杯おごるというところで、彼も折れた。
そこで僕はどうしても質問したかったことを問いかけた。
「そろそろ種明かしをしてくれよ。あの気弱だった君が、なぜ暴力団と交渉ができるんだい?」
「それが気になるのかい?」
「それはそうだよ。だって君は快楽の誘惑に負けて『快楽システム』のパーツになってしまうぐらいだろう?」
言ってしまってから僕は後悔した。
しかし、彼は全く気にしていなかった。
「ふむ。確かにそれは一理があるね。でもね、誘惑に負けるだけでは『快楽システム』への参加資格を得られないよ」
「得られない? じゃあ、何が必要なんだい?」
「プライドを捨てる勇気さ」
「人間の尊厳を捨てることかい?」
「そう言っても構わないね」
「分からないなぁ。快楽の誘惑に負けることと、プライドを捨てることは同じことではないのかい?」
「全く違うんだ。たとえば、僕は優秀な人間だとか、あいつよりは賢いとか、男だから女より偉いとか、人間だから動物より偉いとか、そういった優越意識がプライドにあたる。いくら快楽を赤裸々に求めても、そういう優越意識がある間は、『快楽システム』のパーツにはなれない」
「優越意識を持つために努力するから人間は進歩するのじゃないかい?」
「それは違うよ。優越意識というのは、努力しなくても持てるものなんだ。僕は本当は優秀なのに誰も認めてくれない……なんていう理屈で自分は優秀だと思い込むパターンは珍しくないね」
「じゃあ、自分は劣っていると思い込めばいいのかい?」
「そうじゃないよ。ありのままの自分を見ろということさ。優越意識はそれを妨げるから良くないんだ」
「その、ありのままの自分って、具体的に何だ?」
「他人と比較して優れているわけでもなく、全世界の数十億人もいるよくある人間の一人に過ぎないということさ。居なくなっても、容易に交換可能な取るに足らない存在に過ぎないということ。これが、ありのままの自分というものだね」
「ずいぶん寂しい考え方だね」
「でも、それが君に質問への答になるんだよ」
「え、なんだって?」
「気弱だった僕が、なぜ暴力団と交渉ができるのか……というのが君の質問だったよね?」
「ああ、確かにそうだけど」
「僕は、自分がどれほど取るに足らない人間かよく知っている。たとえ自分が死んでも、『快楽システム』はそのまま支障なく動き続けるわけだ。そう思うと、たいていのことは恐くなくなる。暴力団が相手であってもね」
「なるほど」
「でも、けして命を粗末に扱っているわけではないよ。生きていれば貢献できることはいくらでもあるからね。そこを過小評価しないのが、正しいプライドの捨て方だね」
「理屈はいいから、なぜ交渉ができるのか説明してくれよ。恐くないだけでは交渉にならないだろう?」
「いや、実は交渉になるのさ」
「え? どうして?」
「暴力団は脅すことで自分を強く見せているけれど、本当はそれほど強くはない。もちろん、非合法のヤバい方法も隠し持ってはいるが、たかが当たり屋程度のしょぼい商売でそれを持ち出してくることはあり得ない。ということは、脅しても恐いと思ってくれない相手に対しては、からきし無力になるのさ」
「無力って……」
「後は、連中のメンツを立てる理由さえ取り繕ってやれば、話はまとまるわけだ。むしろ、メンツを立ててやれば向こうは喜ぶぐらいさ」
「喜ぶって……」
「おっと。そろそろ時間だ。次の指令が待っているのでね。ところでどうだい君も、そろそろプライドの奴隷として生きるのに疲れていないかい? 『快楽システム』に参加してパーツになってみないか?」
まさか!
そんなものに参加したいわけがないぞ!
そう思ったものの、心の一部が少し動いた気がした。
だが、それから数日後、僕の心が結論を出す前に、『快楽システム』は風俗営業に関する法律に違反したとして摘発された。
組織そのものが跡形もなく解体されてしまい、旧友の行方も分からなくなってしまった。
(遠野秋彦・作 ©2006 TOHNO, Akihiko)
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