ベターマンという言葉がある。
ベターなマン、つまりより優れた人類という意味である。
誰しも、人間はより優れた完璧な存在になりたいという願望を持つ。それゆえに、そのような言葉に興味を示すことは無理もないことだろう。
たとえ、完璧な人間の理想像が、人形やロボットに仮託されるとしても。
しかし、あるときうっかり間違えて、ベターマンと書くべきところでベータマンと書いて気付いた。
より優れた先進的な人類があるのなら、より立ち後れた後進的な人類もあり得るのではないか。
つまり、コンピュータソフトにおけるベータ版に相当する人類もあり得るのではないか……ということだ。
ベータ版とは、未完成のソフトウェアである。ベータテストと呼ばれる動作テストのために提供されるものを示す言葉だ。ベータテストとは、ほぼ完成に近いソフトウェアを実際に使ってみることを通じて、プログラムの完成度を高めていく手段を意味する。
最近では、このベータ版を無料で幅広く公開し、多くの人に使ってもらうということがよく行われる。
ベータ版の特徴は、既に述べたように無料であることが多いことに加え、そこそこ実務に使えてしまう実用水準の高さと、思いも寄らない場所に不具合が残っていたりする意外性、そしてある日突然ベータテストが終了して利用できなくなるという期間限定性などがある。
では、このようなベータ版の特徴を持った劣った人類、つまりベータマンがいるとしたらどうなるだろう。
完全にベータ版の特徴を継承するなら、ベータマンは以下のような特徴を持つだろう。
まず、無料で使える。
次に、そこそこ仕事を任せてこなせるレベルと言える。
しかし、思わぬところで仕事をこなせない場面があるかもしれない。特定の場面でのみ、上手くビジネスマナーを実践できないであるとか、特定の相手にだけ電話を掛けられないであるとか、そういった思いも寄らない不具合だ。
そして、ある日突然、有無を言わさず去ってしまうかもしれない。
このようなベータマンが有益か否かは微妙だろう。無料な魅力だが、仕事に対する安定感が欠ける。
それ以前に、無料で使えるという前提はおそらく生きた人間には適用できないだろう。たとえベータマンだとしても、である。生きていれば、メシも食うし、服も着なければならない。ベータマンなら娯楽無し、というわけにも行かないだろう。
ということはベータマンとは、仕事をそこそこ任せられるが、思いも寄らない「できないこと」があり、しかも突然去ってしまったりすることがある人を示すことになる。
では、ベータマンと普通の人間を比較するとどちらが有益といえるだろうか……。
そう考えたとき、私は衝撃的な事実に気付いた。
普通の人間を雇用しても、思いも寄らない「できないこと」があるの珍しくない。また、突然去ってしまう者もしばしば出現し、珍しい話ではない。
とすれば、いったいベータマンと普通の人間に違いはあるのだろうか?
実は、我々普通の人間こそが、不完全な人間であるベータマンそのものだったのではないだろうか?
ここで、私はある言葉を思い出した。
永遠のベータ版……。
それは、ベータ版の価値を褒め称える言葉だ。常に完成には至らず状況に適応して変化し続けるプログラムを永遠のベータ版と呼ぶ。いつでも最善の使い勝手を提供するための方策である。
つまり、完全なる完成とは、変化を放棄することであり、それはプログラムの「死」であるという宣言だ。
であるならば、我々人類は不完全なベータマンであるがゆえに、種族としての「死」を免れているというのだろうか?
いいだろう。
ならば、窮屈な「完璧への指向」を放棄し、不完全さを受け入れ、それを愉しむとしよう。
永遠のベータマンとして。
(遠野秋彦・作 ©2007 TOHNO, Akihiko)
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