A国とB国は戦争をしていた。
いずれも世界有数の陸軍国であり、強大な陸軍部隊の大決戦で戦争の決着が付くと当事者も外野も誰もが思っていた。
ところが、いざ開戦してみると、すぐに戦線は膠着状態に陥った。互いに陣地を構築してにらみ合う状態に陥ったのだ。
その理由は、あまりにも進歩しすぎた兵器の性能にあった。最新兵器を撃ち合うと、それだけで敵味方に莫大な損害が出たのだ。これでは、たとえ勝っても損害がありすぎて、勝利を謳歌するどころではない。
その損害を避けたいと思うなら、堅固な陣地に立てこもるしかない。双方が同じことを考えれば、必然的に双方はにらみ合うだけでいつまで経っても決戦は起こらない。
それに代わって戦争の主役になったのは航空機だった。A国もB国も、相手の国の都市や工業地帯に戦略爆撃を行い、戦争継続能力を奪って降伏させようとした。
だが、A国では重大な問題が発生した。
パイロットが足りないのである。
もともと陸軍国であるA国では、航空機は陸軍を支援する補助装備という位置づけであり、B国と違ってあまり熱心に取り組んではいなかったのだ。
それでも機体は何とかなった。民間の工場を動員してフル稼働させれば、必要な数の軍用機を生産することは不可能ではなかった。それでも足りなければ、喜んで軍用機を売ろうという海外の死の商人は多かった。
しかし、パイロットは違う。何しろ、育成するのに時間が掛かる。突然必要とされたからと言って、右から左に増員できるものではない。
A国がパイロットを揃えられるか否かは、戦争の成り行きを左右する重大な問題として浮上した。
そのことを十分に理解しているために、捕虜となったA国パイロット達は、必死に脱走し、本国に戻ろうとした。
それに対処するために、B国は捕虜に取ったA国パイロットを特別厳重な捕虜収容所に集め、優秀なベテランの指揮官を任命した。
T大佐は、新しく送り込まれて来た捕虜パイロット達の顔を見回した。
誰もが皆悔しそうだった。
それはそうだ。
彼らは、A国が戦争に負けないための切り札なのだ。それなのに、敵地上空で撃墜され、捕虜になってしまったのだ。
だが、それで良い。
それがB国のためなのだ。
T大佐は、脱走を試みる者がいかに悲惨な末路を辿るかを懇切丁寧に説明した上で、ここの生活も悪くない……と告げて演説を終えた。
演壇を降りるT大佐に部下が囁きかけた。
「大佐、実は気になることが」
「何だね?」
「今日来たパイロットの中に、有名な幻影マジシャンのミラージュらしい男がいます」
「まさか、マジシャンがパイロットに転職しただと? 他人のそら似だろう」
大佐は笑い飛ばすとそのままその話を忘れてしまった。
数日後。
「脱走だ!」の叫びに大佐は目覚めた。
どのような方法によってか分からないが、収容所の外を走り去る捕虜の一団が見えたというのだ。
ところが、いくら捜索してもそのような捕虜達は見つからないし、点呼を取っても居なくなった捕虜は存在しなかった。
収容所の監視員達は誰もが首をひねった。
「まさか、全員で幻影を見たとでも言うのか!」と大佐は一喝した。
そこで大佐は思い出した。
幻影だと?
そうか、幻影を見せることが得意なマジシャンが収容所にいるかもしれない。ミラージュだ。
即座に大佐はミラージュの思惑を推理した。
幻影による脱走を何回も繰り返せば、警備側もいつの間にか幻影だと安心するようになるだろう。その隙を突いてパイロット達を本当に脱走させる計画に違いない。
大佐は、ミラージュの裏をかくべく、幻影の脱走が繰り返されても警備員達の手綱を引き締め、厳重な調査と点呼を繰り返させた。
その結果、いつまでも収容所外に見られる脱走者は幻影のままであり、点呼による欠員は一人も出なかった。
一ヶ月もすると、大佐はミラージュの幻影に勝ったとほくそ笑んだ。
勝利の祝杯を挙げようと、食事前のワインをグラスに注いだとき、コック長自らが前菜を持って大佐の食卓にやって来た。
「あの、1つ気になることがあるのですが」とコック長は言った。
「なんだね?」
「捕虜達のハンガーストライキが、少し行き過ぎなので心配なのです」
「ハンガーストライキ? そんな話は聞いてないぞ」
「ええ。少しずつ食事量を減らしているだけなので、大したことはないと思って報告はしなかったのですが。ついに、全員が食事を全て残すようになってしまいました」
「何だって?」
大佐は今日の巡察で眺めた捕虜達の様子を思い出してみた。しかし、栄養不足でやつれた様子はなかった。いつもと何も変わりはなかった。
何も変わりがない……。
大佐はハッとした。
「おい、捕虜の人数確認の点呼はどのような手順で行っておるのか!?」
そばに控えていた副官がすぐに答えた。
「はっ。整列させ、番号を言わせた上で2人以上の看守が目視で写真と照合して本人を確認しておりますが」
「相手に触れてはいないのだな?」
「はあ、確かに触れてはおりませんが」
「ついて来い」
大佐はすぐに捕虜達の収容部屋に向かうと、手近な1つの中に入った。
そして、入ってきた大佐に反応もせずベッドに腰掛けて座っている捕虜の肩に手を載せた。
その瞬間に、捕虜の姿は消えてしまった。
「幻影だ……」
大佐は次々と捕虜に触れると、それらも全て消えてしまった。
「すぐに手の空いている者を全て集めろ。捕虜全員に触れて存在確認だ」
「はっ」
青くなった副官が走り去った。
結局、実在した捕虜は1人きりだった。
大佐はその捕虜に告げた。
「やられたよ、ミラージュ。まんまとしてやられた」
「それはどうも。世紀の大マジックショーを楽しんで頂けて感謝いたします」
「私は、誰もが脱走の幻影に慣れたところで本当の脱走をさせると思っていた。しかし、君の狙いは違っていた。幻影の脱走は地下トンネルからの本物の脱走をカモフラージュする手段だったのだな。そして、脱走した捕虜の代わりに幻影を残して、人数が減ったことをばれないようにしたわけだ」
「その通り。ご明察で」
「しかし、幻影は食事をしない。それによって、トリックがばれてしまったわけだ。そこが君の失敗だな」
「いえいえ。マジックは大成功ですよ。僕の請け負った仕事は、この収容所から半分でよいからパイロット達を本国に送り返すことです。しかし、実際には全員を送り返せましたから、成功以上の大成功です」
「だが、おまえは逃げ損なったぞ!」
「私はパイロットではありませんから。私がA国に戻らなくても、A国の戦力には何も損失はありませんよ」
そうか……。
T大佐はがっくりと膝を突いた。
この戦争の勝敗を決するのはパイロットであって、こいつではなかったのだ。
そして、A国は敗戦を免れた。戦争そのものは経済的疲弊による双方の和解で決着は付かなかったが、ミラージュは国家的なヒーローとなった。
戦後、A国の航空部隊はミラージュの功績を称え、その名を戦闘機に名付けた。その戦闘機は、通称『脱走ミラージュ』と呼ばれたという。
だが、その栄誉ある式典に強制的に出席されられたミラージュ本人は、触れると消えてしまう幻影だったという。
(遠野秋彦・作 ©2007 TOHNO, Akihiko)
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