ULTRASEVEN Xの第1話はそれほどとは思わなかったのですが、第2話, 第3話が全く予想外に面白く、たまげてしまっています。
その面白さの質を考えると、実は実に40年の時を経て、かつての「本当に面白かった」特撮が戻ってきたのかもしれない……というアイデアが浮かんだのでメモしておきます。
ちなみに、ただのアイデアメモなので、けして信じないように。
日本特撮の堕落とは何か? §
怪獣映画が子供向けの安易な内容になったとき……という解釈もあり得ますが、個人的には以下のように捉えたいと思います。
本来、異常状態に向き合った人間のドラマであったのに対して、主題が「巨大怪獣の対決」に転化したとき
ウルトラシリーズの場合は、怪獣対決のバリエーションとして怪獣対巨大ヒーローとなりますが本質は同じです。ただし、ウルトラQと、あくまで蛇足として本来ウルトラシリーズではないキャプテンウルトラは、この範疇に含まれません。
「マン」までは良かったという意見もありますが、私の印象では「マン」も堕落に入ります。
ウルトラセブンとは、当然堕落の範疇に入る作品です。
ULTRASEVEN Xの特異性 §
ULTRASEVEN Xの第1話は、確かにクライマックスを怪獣対巨大ヒーローの対決シーンで描きます。
ところが、第2話では実質的に怪獣は登場せず、セブンは変身するものの、ただアブダクションを行う空飛ぶ円盤をただ一発の攻撃で撃墜するだけです。格闘どころか、空中戦すらありません。その代わりに存在するのは、濃厚な社会心理のドラマです。セブンへの変身と円盤の撃墜は、そのような状況に直面した主人公の心理描写として位置づけられるものです。けして、「戦い」や「勝ち負け」は問題にされていません。
第3話では、怪獣とセブンの対決が再び発生します。しかし、怪獣は等身大であり、セブンも巨大化しません。ここで既に「怪獣対巨大ヒーローの対決」という図式から逸脱しています。しかも、怪獣は「凶悪な破壊者」ではなく、単なる商売人の宇宙人でしかありません。彼が人間の姿を捨てて本来の姿に戻ったのは、主人公らの執拗な追求の「理不尽さ」に怒ったからでしかありません。そして、彼を倒すことは何ら本質的な問題の解決になっていません。宇宙人に利用された人間達を救うためには、その人間達を武器で脅すしか無く、この事件に関わった者達の心や経済状態が救われることは全くありません。
つまり、怪獣との対決は常に見せ場ではないどころか、対決があってすらそれは勝利のカタルシスではなく、「心の問題を浮き彫りにする」という機能性を与えられています。
人と社会の物語への回帰 §
結局のところ、個人的にこれまでずっと特撮が物足りなかった理由は、人と社会の存在感の希薄さにあると言えます。
しかし、それは初期の日本特撮の世界にあっては、当然のように描かれたものです。たとえば、海底軍艦の神宮司艦長の屈折した心情は戦中と戦後の日本社会のギャップを抜きにしては理解できません。
そして、もしかしたらULTRASEVEN Xとは、そういった人と社会を描いていた時代の特撮への回帰をもたらした作品になるのかもしれない……という淡い希望を抱かせてくれました。
されに言えば、それは一般的に認識される「ウルトラマンに象徴される特撮黄金期」という認識を否定する行為にもなります。しかし、怪獣ではなく人間が主人公であった時代の特撮映画をもって「特撮黄金期」と認識している私からすれば、大歓迎の成り行きです。
最後にあてにならない要約 §
つまりですね。
私は取り立てて特殊な能力や立場も持たない人間だから、素晴らしいヒーローには感情移入できないわけですよ。
だから、怪獣やヒーローだけで成立する物語には私の居場所が無く、見ていても面白くないのです。
しかし、人間が主人公だった時代の特撮映画には居場所があるし、ULTRASEVEN Xにも居場所があるのです。
補足 §
もしかしたら、実相寺昭雄の死……という状況抜きにULTRASEVEN Xという作品は成立し得なかったのではないか……という根拠のないアイデアが浮かびました。
神様のように偉大すぎる人間が存在することは、逆に何かを行う制約になることもあります。