「人生おしまい、みたいな顔してますね」
公園のベンチに座ったP氏にそう声を掛けたのは、真っ赤なスーツを着込んだ営業マンだった。
「ほっといてくれ。締切は明日なのに、プログラムが書けないんだよ」
「スランプ……ですか?」
「そうかもな。やる気はあるのに、パソコンの前に座ると急に苦痛に見舞われて手が動かなくなるんだ」
「ほほう。それは椅子が悪いという可能性がありますな」
「椅子? 椅子1つで仕事が止まるというのか? そんなバカな……」
「なら試してみますか? 私、実はナイスな椅子を売る営業マンなんですよ」
「そんな見え透いた営業トークに引っかかるバカに見えるか? 椅子ぐらいで状況が変わるわけがないだろう」
「そこまで言われるとこちらも後に引けませんね。どうですか、私と賭をしませんか? 私の扱う椅子を1週間お貸ししますから、それを使ってみてください。もしそれで仕事が進まなかったら昼飯をおごります」
「いいだろう。本当に仕事の効率が上がったら、俺がおまえに昼飯をおごってやるよ」
営業マンはすぐに椅子を手配し、その日の夕方にはP氏のパソコンデスクの前に設置された。
「椅子ぐらいで仕事の効率が変わるわけが……」そう思いながら座ったP氏は愕然とした。体を包み込むフィット感。あまりに柔らかに。それでいてしっかりと安定して、身体に不安はない。試しにキーを叩いてみたが、驚くほどなめらかだ。P氏は少しだけ高さを調整してから仕事に取りかかった。
ハッと気付いたとき、既に終電の時間が近かった。そして、完成するか危ぶんでいたプログラムは、完成していた。
P氏は、興奮した。
この椅子さえあれば、どんどん仕事ができる。どんな仕事もドンと来いだ。仕事を増やしたっていい。あるいは、もっと高額の報酬をもらえる難しい仕事を引き受けても構わない。ともかく、収入増だ。バンザイ!
そこでP氏は思い出した。この椅子は1週間という約束で貸し出されたものだ。その期間が過ぎれば椅子は持ち去れ、元に椅子に戻ってしまう。
1週間後、P氏は営業マンに昼飯をおごりながら必死に頼んだ。
「売ってくれ。あの椅子がどうしても欲しいんだ!」
「しかし、あれは高いですよ」
営業マンが言う値段は、P氏が考えていた値段とは桁がいくつも違った。冷静に考えれば、「たかが椅子1つ」に支払うには高すぎだ。だが、仕事が進む快感に溺れたP氏には冷静な判断力が欠けていた。
P氏は無理のあるローンを組んでその椅子を購入した。
それからのP氏は、バリバリと気持ち良く仕事をこなしていった。それまでが嘘のように、あらゆるプログラムがスムーズに書き下ろされた。収入も何倍にも増えた。
だが、それにも関わらずP氏の暮らしは豊かにならなかった。それどころか、不意の出費があるとローンが増えた。
あまりに椅子は高すぎたのだ。
P氏は悩んだ。
椅子を買ったのは間違いだったのだろうか。しかし椅子を買う前も、お金が無くて苦しんでいたのは事実だ。
公園のベンチで悩んでいると声を掛けてくる男がいた。
「また人生おしまい、みたいな顔してますね」
それはP氏に椅子を売った真っ赤なスーツの営業マンだった。
「おまえか。ローンが多くてね。仕事をしてもちっとも豊かにならない」
「ならば収入を増やせば良いわけですね。もっとナイスな椅子を使えば簡単なことです」
「もっと……ナイスな椅子だと?」
「はい。今の倍の仕事、倍の収入をお約束しますよ」
倍の収入があれば、ローンを返してもたっぷり金が残る! 豊かな暮らしも思うがままだ!
P氏はすぐに椅子を見せろと営業マンに要求した。「嘘だったらただではおかないぞ!」
営業マンは嘘つきではなかった。新しい椅子のおかげで、P氏の収入は倍に増えた。しかし、更に高額な2つ目の椅子のローンも抱え込んだP氏が豊かになることはなかった。
(遠野秋彦・作 ©2008 TOHNO, Akihiko)
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