2008年06月28日
川俣晶の縁側歴史と文化歴史資料館巡りtotal 8271 count

小田急世田谷代田駅・代田連絡線跡地

Written By: 川俣 晶連絡先

 井の頭線がらみの「線路の跡地」は極めて少ないと言えます。たぶん、かつて線路があったが今はない場所は、渋谷駅(ホームの位置が吉祥寺寄りにずれた関係上、短くなっていると思った)、永福町駅(車庫が無くなった)ぐらいではないでしょうか。明大前駅付近には4線分の水道橋などもありますが、残り2線分は最初から使われなかったものなので、「跡地」には当たりません。廃駅はおそらく駒場と東大前を1つにして駒場東大前を作ったことで消えた駒場と東大前ぐらいではないでしょうか。

 そのように考えたとき、井の頭線がらみで珍しく大規模で派手な「線路の跡地」が存在します。それが代田連絡線です。この線は太平洋戦争中に関東の私鉄が国策で合併した、いわゆる「大東急」の時代に建設されたもので、戦災で車両を失った井の頭線に小田急線の車両を送るために使われたとされます。井の頭線の新代田と小田急線の世田谷代田の間に存在しました。

 しかし、ほとんど痕跡が残っていないため、従来は「文字資料」で知る「知識」でしかありませんでした。

 その状況が変わったのが、国土地理院が太平洋戦争直後に米軍が撮影した航空写真のネット公開です。この写真では、くっきりと代田連絡線のラインが見て取れます。これ以後、少なくとも私にとっては、代田連絡線は具体的にイメージ可能なリアルな存在として印象に残るようになりました。

 しかし、その現地を見に行こう、という気持ちにはなりませんでした。なぜかといえば、明確に確認可能な跡地は小田急線世田谷代田駅にしか無いが、私の興味は「井の頭線」側にしか無かったからです。

 それにも関わらず、今日になって見に行った理由は簡単です。どうやら、小田急線地下化工事の関係で、近い将来これが消えるらしいという話を聞き込んだからです。2度と見られなくなるものなら、今のうちに見ておこう……というのが見に行った理由です。

世田谷代田駅にて §

 跨線橋から見下ろした写真がWikiPediaにありますが、現在の跨線橋からは撮れませんでした。

 しかし、上り線ホームの改札から外に出て裏を見ると、驚くほど明瞭に井の頭線側に曲がっていく土地が残されているではありませんか!

世田谷代田駅・代田連絡線跡地

 このせちがらい世の中で、まさか終戦直後に線路が撤去された土地が、そのまま草が生えるまま放置され、しかもカーブの曲がり具合まで確認できる形が維持されているとは。かなり頭がクラクラするような贅沢な状況だと思いました。

 この場所が消えてしまうのは惜しいですが、むしろ今まで残っていたことの方が奇跡ではないかと思います。

帰路 §

 帰りはそのまま井の頭線の新代田まで歩いてみました。予想以上に短い距離でした。

Facebook

このコンテンツを書いた川俣 晶へメッセージを送る

[メッセージ送信フォームを利用する]

メッセージ送信フォームを利用することで、川俣 晶に対してメッセージを送ることができます。

この機能は、100%確実に川俣 晶へメッセージを伝達するものではなく、また、確実に川俣 晶よりの返事を得られるものではないことにご注意ください。

このコンテンツへトラックバックするためのURL

https://mag.autumn.org/tb.aspx/20080628151645
サイトの表紙【歴史資料館巡り】の表紙【歴史資料館巡り】のコンテンツ全リスト 【歴史資料館巡り】の入手全リスト 【歴史資料館巡り】のRSS1.0形式の情報このサイトの全キーワードリスト 印刷用ページ

管理者: 川俣 晶連絡先

Powered by MagSite2 Version 0.36 (Alpha-Test) Copyright (c) 2004-2021 Pie Dey.Co.,Ltd.