「崖の上のポニョ」を見てきました。新宿バルト9のDLP上映です。運良く試写会で見ることができたので、これが2回目です。
というわけで、そろそろストレートな感想を書きます。
ネタバレありですので、ネタバレを希望されない方はすぐに閉じてください。
こ
れ
は
ネ
タ
バ
レ
注
意
の
た
め
の
長
い
隙
間
空
け
の
た
め
の
文
字
列
で
す。
出てくる観客の顔 §
自分が見る前の回の観客が入り口から続々と出てきたので、注意して彼らの表情を見てみました。
すると、面白いことに2つのパターンに集約されました。
- ストレートな笑顔 (2割ぐらい)
- 上手く消化できない何かを抱え込んで難しい顔 (8割ぐらい)
なぜこの2つに集約されるのか。
なぜ2つに分かれるのかを考えてみました。
正しいかどうかは分かりませんが、以下のように解釈してみました。
まず、この映画の結末にはとんでもない爆弾があります。
- 魚や半魚人のポニョも好きにならねばならない、という要求は思わず「うっ」と思うほど一般人にはハードルが高い
このとき、これに対するリアクションは全く2つに分かれます。
- ポニョに感情移入して見ている観客→醜いありのままの自分でも、受け入れて好きと言ってもらえる愛があって嬉しい→笑顔
- 宗介に感情移入して見ている観客→理屈の上では好きと言わなくてはならないし、それでハッピーエンドになるのは分かっている。でも、もし自分なら魚や半魚人まで「好き」とは言えるだろうか……→難しい顔
仮にこの解釈が正しいとすれば、ポニョに感情移入して見ている観客はおおむね2割、
宗介に感情移入して見ている観客はおおむね8割となります。
2つレイヤーが反復される構造 §
5歳の男の子は、まだ自分のポリシーなどを確立できてはいません。
従って、行動にはお手本が必要です。
お手本を提供するのは母親のリサです。
そのため、おおまかな意味でリサの行動を宗介が反復するという構造が見られます。
具体的には、「頼る相手を喪失した状況下で、より弱いものを守り面倒を見なければならない」という構造が反復されます。
第1段階において、リサは夫という頼る相手を喪失した状況下で、老人達、宗介、ポニョの面倒を見なければなりません。
そして、リサが家を離れた翌朝から、宗介はこの構造を反復します。つまり、リサという頼る相手を喪失した状況下で、ポニョの面倒を見なければなりません。
反復されない2つのレイヤー §
しかし、この2つのレイヤーで起きている出来事は違います。
リサが属する「大人の世界」というレイヤーでは、天変地異を引き起こすポニョの魔法をいかにして止めるかという問題が主テーマとなります。この問題は、リサとグランマンマーレの巨頭会談によって話が付けられます。
一方、宗介が属する「子供の世界」というレイヤーでは、「リサを見つけ、ポニョを守る」という非常に狭い範囲の出来事が進行します。
フジモトの誤りは、この相違を理解してないことだったといえます。彼の宗介に対する説得が「怪しいおじさん」の誘惑にしか見えないのは、彼の語りが「子供の世界」のレイヤーの語りではないからでしょう。
「ポニョを守る」という反復 §
宗介の立場から見ると、「ポニョを守る」という主題の反復が見られます。
1回目はポニョの発見から始まり、フジモトに奪還されるところで終わります。このときは、守ることに失敗しています。
であるから2回目にポニョが来た時に、宗介はもう一度失敗することができません。
かくして宗介は船長になった §
この映画のクライマックスは、やはり宗介の船出からラストシーンまででしょう。
この間の描写の見事さは素晴らしいの一言です。
まず、魔法で大きくなったポンポン蒸気船。船長帽をかぶり舵を取った宗介は、まるで一人前の海の男に見えます。であるから、救難船団の大人達は宗介とポニョの単独行動を許し、あまつさえ宗介に敬礼までしてしまったのでしょう。それに対して答礼する宗介は、まさにリサの不在を埋める「大人の代理人」としての立場に立ちます。宗介の絶頂期と言えます。
しかし、高揚した気分はそこまでです。ポニョの魔法が消え、燃料となる蝋燭は尽き、船も小さくなってしまいます。それどころか、本来は大きかったはずの船長帽や双眼鏡まで玩具サイズに縮小してしまいます。
もはや、一人前の男になったような高揚感は消え、宗介はバタ足で船を進め、半分眠るポニョの手を引いて歩かねばなりません。今や、ポニョは魔法の力で宗介を称える心地よい存在ではなく、重荷そのものになったわけです。
それでも宗介は投げ出さないで最後まで貫徹します。そこに、感動と未来への可能性があります。
自分はこれほどまでに素晴らしい存在だ、という認識が単なる錯覚に過ぎず、自分はとても矮小な存在だと気づき、それでも希望を失わないで行動し続ける……というのは、最も本質的な希望の語りです。なぜなら、人間は誰でも矮小な存在であり、素晴らしい人間とは要するに諦めないで行動を続けた者達そのものだからです。
その意味で、宗介は理想的なヒーローそのものです。
ヒロインは誰だ §
さて、この映画のヒロインは誰でしょうか?
実は作品の持ち味を決定的に位置づけるヒロインは、ポニョではなくリサではないか、という気がします。他人の面倒を見る優しさと包容力(なにせ、どこの誰かも分からないポニョを家に入れたのだ)、そして類い希な行動力。敬愛を集める人間の1つの理想像をリサは体現していると言えます。
更にリサが魅力的であるのは、料理、車の運転、発電機をまわす、無線機を使う、発光信号機でモールス符号を使う、といった具体的な行動を1つ1つこなすことで、地に足が付いた存在感を描き込まれている点です。
その上、母なる海そのものであるグランマンマーレと1対1で対話して事態を決着させるという快挙も見せています。
無線機 §
50MHz帯のアマチュア無線でしょうか?
コールサインはJA4LLと言っているように聞こえましたが、今時2文字コールってあり?
ちなみに、通信内容は明らかに通常の交信手順から外れています。(無線従事者免許証を持っているとは考えられない宗介も波を出してしまっているし)
アンテナはちょっと分かりません。ああいうタイプのアンテナは記憶にありません。(なにせ、波を出さなくなってうん十年だし……)。ただ、50MHzは波長6mなので、1/4λの長さとすれば、おおむねそれっぽいサイズだったかもしれません。
ちなみにJA4の4は、中国総合通信局の管轄を示し、岡山、鳥取、広島、島根、山口が対応範囲とされます。この範囲内のエリア(の瀬戸内)が作品のモデルとして暗に想定されているのでしょう。
車の魅力 §
軽乗用車が走る走る。この魅力は宮崎アニメならでは。しかも、運転者は若妻だ! 色気ありまくり!
文章で書くと短いですが、この映画の魅力の半分はここにあると見ました。
人妻の魅力 §
リサは人妻です。未亡人ですらありません。夫がちゃんといます。
それなのに、これほどの魅力を振りまいてしまって……。
不倫願望に満ちた人妻ファンを量産するとは、さすが宮崎。この年齢になると、もはやどのようなインモラルな行為も怖いもの無しですね。
(ポニョにしても、パンツ丸見えどころか、寝ているポニョの下からまっすぐ見るような視線すら描かれています)
トキの魅力 §
最後には誤ったアドバイスを与えてしまったものの、本当に親身になって宗介のことを考えていたトキは魅力のある存在です。おそらく、宗介はトキを嫌な婆さんだと思っていたのでしょう。しかし、最後にたった1人の味方として登場したことで、印象が変わったかもしれません。
たぶん未来の僕らは、宗介にもリサにもなれませんが、トキにはなれる可能性はあります。
フジモトと古代生物 §
プログラムを見てびっくり。
フジモトというのは、海底2万マイルのノーチラス号の唯一の東洋人乗組員の名前から取ったそうな。フジモトという名前はあまりに唐突で何だろうと思いましたが、そういうことでしたか。
それを踏まえると、フジモトの潜水艇ウバザメ号のデザインも納得が行きます。そういう世界のああいうムードを体現したデザインというわけですね。(というか、そういうムードだと言うことはデザインを見た時から分かっていたこと)
それから、プログラムにはデボン紀やデボン紀の魚の解説も載っていました。うんうん、いいぞ、このプログラムは良質でいいぞ!
フジモトが企んでいることが何かは、彼の口が明瞭に語っています。また、魔法の暴走で何が起きたのかも(なぜデボン紀の魚が出てきたのかも)、明瞭に示されています。しかし、明瞭すぎるがゆえにカンブリア爆発のような知識がないと、意味不明の言葉の羅列になってしまう可能性もありますね。そのあたりを多少フォローする役目を持っていると思いますが、実はそれにとどまることはなく、見るものをもっと新しい別の世界の魅力に誘う効能も期待されていると思います。つまり、古代生物といえば「恐竜!」で終わってしまう貧困な発想はやめて、たとえば魚の時代とも言われたデボン紀の魚にも注目してみようよ!と言っているようにも思えます。
フジモト以外にも §
作品のバックグラウンドには、夏目漱石やワルキューレなどもあるようですね。
所ジョージの魅力 §
所ジョージはあまり好きではありません。なぜかといえば、少し人をバカにしたような尊大なムードをしゃべり方から感じるからです。もちろん、それは彼のキャラであり、そのようなキャラが人気を支えているのだろう、ということも分かります。
しかし、所ジョージが声をあてているフジモトには、そのような声の尊大さを全く感じません。むしろ、地味でオドオドした印象を受けます。状況に振る舞わされてオロオロし、必死になってもどこかずれている憎めない男を好演しています。この演技はとても好きです。この映画で、自分に最も近いキャラはフジモトだと思いました。
まさか、所ジョージにこのような懐の深い「芸」があったとは。見直しました。
デイケアセンター §
リサはデイケアセンターに勤務していますが、宗介もそこに出入りします。そこにいる老人達は全体を通して繰返し出現する主要な登場人物です。
そして、彼女らは不思議な大きな出来事の見届け人として物語の中に居場所を得ています。自由に走ることができる足という報酬も手に入れます。
これは、老人達が増えていく現代日本という状況に対して、1つの希望を語ってみせたということでしょう。老人達は、居なければよい存在なのではなく、やはり社会に対して参加したい存在なのです。そして、それはもはや無視できる少数派ではありません。でるならば、映画は老人達を取り込んだ形で物語を描いて見せねばなりません。宮崎駿は、リアルな「老い」に近い立場なので、それを描くことができたのでしょう。たぶん。
とりあえずの結論 §
リサカーがタイヤを鳴らし、時にはドリフトまでしながら突っ走るところが好き。特に、嵐の中、船を引き上げるところを突っ切る部分は最大級のドキドキ感があっていいですね。無謀ですが、それを突っ切る大胆さが好き。
それから、ポンポン蒸気船で船出するシーンの高揚感が好き、そして魔法が消えていって宗介が身体を張らねばならないところも好き。そして、その2つのシーンのギャップの大きさが好き。
ついでに、人妻の魅力に参れと揺さぶりを掛けてくる宮崎駿が好き。更には女の子だけでなく、半魚人や魚まで好きになれという宮崎駿が好き。